写ルンですの裏に、炭素の帳簿がある
──平成0x29A年06月23日 19:00
ラボの蛍光灯が一本切れかけていて、ジジ、ジジ、と虫の鳴き声みたいな音を立てている。
壁掛けのアナログ時計が十九時を指した。秒針の音だけが妙にはっきり聞こえる。デジタル表示のほうがよほど正確なのに、うちの主任は「針が回ってないと時間が経ってる気がしない」と言い張って、わざわざ単三電池で動くやつを備品申請した。三年前の話だ。
私は机の上に広げたカーボンクレジット台帳の差分ログを睨んでいた。
第22環境研究ブロック、温室効果ガス排出換算係。それが私の肩書きらしい。らしい、というのは、この部署の正式名称を正確に覚えている人間が私を含めて一人もいないからだ。
「桃子、また眉間にしわ」
右耳の奥で父の声がした。岸谷幸雄、享年五十八。胃がん。死ぬ三日前まで缶コーヒーを飲んでいた人だ。
「台帳のバージョンが合わないの。記憶補助モジュールの定期更新、先月やったはずなのに、換算係数が二世代前のまま巻き戻ってる」
「ああ、あれか。更新パッチ当てるとき署名の検証で弾かれるやつだろ。おまえが入る前にも一回あった」
「知ってるなら先に言って」
「聞かれなかった」
父はこういうところが生前から変わらない。聞かれなければ言わない。聞いたら聞いたで「自分で考えろ」と返してくる。エージェントになっても性格というのは保存されるものらしい。
台帳の値がずれたまま上流に流すと、排出換算がブロック全体で狂う。閣議にかかる政策変更リクエストにも影響する。下手をすると、どこかの五分間総理大臣が古い数値で承認ボタンを押してしまう。
そしてその差分は党ドクトリンの署名アルゴリズムを通過する。あのアルゴリズムは——もう半分くらい丸裸だけれど——数字の整合性だけは律儀にチェックする。矛盾した台帳を投げれば弾かれて、リクエスト全体がフリーズする。
窓の外で、自律警備ドローンが低い唸りを上げて旋回した。夜間モードに切り替わったらしく、赤い点滅が等間隔に明滅している。あの光を見るたびに、なぜか祭りの夜店を思い出す。金魚すくいの赤。
「手動で係数を上書きするしかないか」
「署名どうすんだ」
「パッチの再申請を出す。で、承認が降りるまでの暫定値として手書きの記録を添付する」
「手書き」
「紙の台帳が倉庫にある。三年分くらい」
父が鼻で笑った気がした。
倉庫は廊下の突き当たりにある。鍵はダイヤル式。0829。誰が決めたのか知らないが、建物の竣工年らしい。棚にはファイルボックスが並び、その隙間に雑多な備品が詰め込まれている。
紙台帳を引っ張り出す途中で、箱の奥から使い捨てカメラが転がり落ちてきた。富士フイルムの緑色。フィルム残数の小窓に「12」と表示されている。
「誰だよ、こんなの置いたの」
「さあ。前の主任じゃないか。あの人は変なもの集めてた」
巻き上げダイヤルを回してみた。ジリリ、と小さな手応え。まだ動く。
ふと思いついて、台帳の該当ページをカメラで撮った。フラッシュが焚かれて、蛍光灯の下とは違う白い光がページを照らした。数字がくっきり浮かんだ。
撮ったところで現像する場所があるのかは知らない。でも、デジタルの記憶補助が巻き戻るなら、銀塩の粒子のほうがまだ信用できる気がした。
「おまえ、それ経費で落ちないぞ」
「経費じゃない。証拠保全」
「証拠って。写ルンですが」
「写ルンですが」
秒針が一周した。ドローンの赤い光が、窓の端をまた横切った。
私はカメラをポケットに入れた。残り十一枚。台帳の全ページを撮るには足りない。でも、ここに書いてある数字が確かに存在した——ということを、フィルムの粒子は覚えていてくれるだろう。
父が一瞬黙って、それから言った。
「……おまえの記憶補助も、更新ちゃんと確認しとけよ」
「私の?」
「俺のことだよ。俺も記憶補助の一種だろ。バージョン、合ってるか?」
合ってるかどうか、確かめる方法を私は知らない。
アナログ時計の秒針が、カチ、と音を立てた。