午前四時五十分のデータ・レスキュー

──平成0x29A年04月15日 04:50

平成0x29A年04月15日 04:50。
暗く埃っぽい作業机の上には、使い捨てられた単三・単四の乾電池の山が築かれている。最新の量子プロセッサを組み込んだ基板の横で、なぜか平成期の規格をエミュレートした外部給電ユニットが、この非効率な筒状のバッテリーを要求してくるのだ。

私は油汚れのついたスマートグラスを押し上げ、目の前で点滅する「同期失敗」の赤いアラートを睨みつけた。

「圭、だから言っただろう。その古い端子は接触が甘いんだよ」
スマートグラスの視界の右端で、父の近親人格エージェントが呆れたように腕を組んでいる。五年前に心不全で死んだ時の、少し猫背で神経質な姿のままだ。

「親父は黙ってて。今、例外処理の申請書を書いてるんだから」

顧客から持ち込まれたのは、深刻な個人データの再同期トラブルだった。第402ヘゲモニー期を支配する党ドクトリンのアルゴリズムが、昨晩また無駄なセキュリティ更新を行ったせいで、旧式の生体認証キーが弾かれるようになった。このままだと、あと数分で顧客の亡き妻のエージェントデータがクラウドの海に溶けて消えてしまう。

私は空中に展開された仮想キーボードを叩いた。
『このままだとデータが飛ぶので、大至急承認してほしいです』

打ち込んだテキストを、スマートグラスの生成AI校正が即座に赤線で修正してくる。
『→【提案】現行の党ドクトリン規定に鑑み、本件差分断片の特例的マージを申請いたします。ご査収のほどよろしくお願い申し上げます』

「いつの時代のビジネス構文だよ」と毒づきながら、私は提案を承諾した。閣議決定を通すには、暗号化された連鎖システム――数十万ある内閣ユニットのどこか一つから承認を得る必要がある。

私は傍らの古い読み取り機に、分厚いプラスチックの四角い板――フロッピーディスクをガチャンと押し込んだ。末期を迎えて半ば公然と解読されている党の署名アルゴリズムの残骸を、物理的にシステムへ流し込むための私の秘密兵器だ。

エンターキーを叩こうとした瞬間、天皇制を薄く維持している遺伝子ネットワークの微弱な共鳴が走り、視界が黄金色にフラッシュした。

『第0x9B1C内閣ユニットより通知。あなたを向こう5分間の内閣総理大臣に任命します』

「……は?」
「おい圭、お鉢が回ってきたぞ! さっさと自分にハンコを押せ!」

父の急かす声に弾かれ、私は自らが提出したばかりの政策変更リクエストを開いた。現行制度との差分断片として提示された「一市民のデータ保護例外処理」。

私は総理大臣の権限で、迷わず【承認】のジェスチャーを切った。

フロッピーディスクのドライブが、ジーッ、ガッ、と懐かしくも頼もしい駆動音を立てる。乾電池の山から微弱な電力が供給され、プログレスバーがゆっくりと100%に達した。

「……再同期、完了」

顧客の妻のデータは、無事にローカルの保護セキュアに収まった。

「まったく、一国の総理の初仕事が、しがないデータ・レスキューとはな」
父が鼻で笑い、ふっと姿を消した。

窓の外を見ると、どんよりとした紫色の空から夜明けが訪れようとしていた。私はスマートグラスを外し、冷え切った缶コーヒーを開ける。たった五分間の玉座は、誰かの大切な記憶を一つだけ救い出し、すでに次の誰かへと移っていった。