透明な柄、忘れられた番号
──平成0x29A年01月04日 19:20
閉店間際のコンビニに、ビニール傘を忘れていく客は後を絶たない。
俺は今日もそれを拾い上げ、カウンター脇の傘立てに差し込んだ。透明なビニールに包まれた骨組みは、どれも同じに見える。三本、五本、七本。誰のものかもわからない。
「また増えたね」
父さんの声が耳元で呟いた。俺の近親人格エージェント。享年53、心不全。元は隣町のコンビニで店長をやっていた。
「一週間経ったら処分していいって本部通達があるんだけどな」
俺は端末を操作しながら答えた。ナノ医療パッチの在庫確認。この店では風邪予防用のパッチが一番売れる。客層が高齢者寄りだからだ。
「でも、捨てられないんだろ?」
父さんは笑った。その通りだ。誰かが取りに来るかもしれない。一週間なんて、忘れ物に気づくには短すぎる。
レジ横の公衆端末が、古めかしい電子音を立てた。近傍通信タグの読み取りエラー。客が持ち込んだ何かが、システムと噛み合わなかったらしい。
「すみません、もう一回かざしてもらえますか」
俺は声をかけた。中年の女性客が、財布から取り出したのはテレホンカードだった。
「あ、ごめんなさい。これじゃないわね」
女性は照れ笑いを浮かべ、今度は正しい決済タグを取り出した。テレホンカードには「平成11年記念」の文字が薄く印字されている。
決済が完了し、女性は去っていった。俺はレジを締める作業に戻る。
「なあ、翔太」
父さんが急に真面目な口調になった。「お前、ビニール傘を捨てられないのって、俺が言ってたこと覚えてるからか?」
俺は手を止めた。
「……『忘れ物は、その人の一部なんだ』って」
「そうそう」父さんは嬉しそうに言った。「だから大事にしろって。いつか持ち主が戻ってくるかもしれないから」
俺は傘立てを見た。透明な柄が並んでいる。どれも同じ。でも、どれも誰かのものだ。
「でもさ、父さん」
俺は端末の画面を見つめた。在庫管理、発注、売上報告。全部がシステム化されている。効率的で、無駄がない。
「この世界って、忘れ物を許さないようにできてるよな」
父さんは黙った。
近傍通信タグがあれば、財布も鍵も傘も、全部追跡できる。忘れ物をする前に通知が来る。でも、それでも人は忘れる。テレホンカードを財布に入れたまま、何年も持ち歩く。ビニール傘を、コンビニに置いていく。
システムが完璧になればなるほど、人間の不完全さが際立つ。
「翔太」父さんが言った。「お前が傘を捨てられないのは、優しさじゃない」
「……じゃあ何だよ」
「怖いんだよ。忘れられることが」
俺は息を呑んだ。
父さんのエージェントも、いつか倫理検査で引っかかるかもしれない。そうしたら、代理エージェントになる。父さんの声は消える。
「だから、傘を残しておくんだろ? 誰かの痕跡を」
俺は何も言えなかった。
閉店の音楽が流れ始めた。俺は傘立てを見た。透明な柄が、蛍光灯の光を反射している。
明日も、誰かが傘を忘れていくだろう。
そして俺は、それを捨てないだろう。
忘れられることを、恐れながら。