午前二時の照合灯

──平成0x29A年06月15日 02:00

 ポケベルが鳴った。腰のホルダーが震えて、数字の羅列がちいさな液晶に流れる。「224 0615 0200 G7」。第七ゲートの生体認証装置に異常。

 あたしは警備端末を閉じて、懐中電灯を取った。旧横浜エリア、みなとみらい地区の商業施設跡。もう何年も「平成ショッピングモール」を名乗っているくせに、深夜の館内は水族館みたいに静かだった。

 「……母さん、第七ゲートの照合機、前にも壊れたっけ」

 右耳のイヤホンから、少し掠れた声が返る。

 『壊れたっていうか、あれ湿気よ。六月は毎年。パネルの裏に除湿剤入れなさいって言ったでしょ』

 母さんのエージェントは、こういう生活の知恵だけはやたら正確だ。野々宮 幸恵。享年四十七。あたしが十九のとき、くも膜下出血で倒れて、翌朝には人格データだけの存在になった。

 第七ゲートに着くと、照合パネルの表面がうっすら結露していた。あたしは袖で拭いて、自分の右手を押し当てる。体温と静脈パターンを読んで、パネルが淡い緑に光った。正常。

 ただ、ログを見て眉をひそめた。

 二十分前にここを通過した人物の照合記録。名前の欄に「野々宮 幸恵」と出ている。

 母さんの名前だ。

 『……何? あたしが何かした?』

 「してない。してないけど、母さんの生体データで誰かがゲート通ってる」

 あたしは端末を叩いた。遺伝子ネットワーク経由の照合だ。皇室系統の薄い因子を含む生体認証は、血縁が近いと誤照合を起こすことがある。母さんが生きていた頃の静脈データが残っていて、あたしの手と混線したのか。いや、あたしの通過記録は別にある。

 第七ゲートの向こうは、閉鎖されたフードコート跡だった。懐中電灯で照らすと、埃を被ったテーブルの上にインスタントラーメンの空き袋が置いてある。「チキンラーメン 平成復刻版」。袋の端が破られていて、中の景品シールだけが剥がされていた。「あたり」の銀色の台紙が、テーブルに残っている。

 誰かがここで食べた。つい最近。

 あたしは館内カメラの映像を端末に呼び出そうとしたが、AI秘書モードに切り替わった瞬間、内閣ユニットの通知が割り込んできた。画面に「内閣総理大臣任命:野々宮 瑞希 第0x7A2F1内閣ユニット 任期5分」と表示される。

 最悪のタイミングだった。閣議の政策変更リクエストが三件、画面に並ぶ。AI秘書が要約を読み上げる。フードコートの暗がりで、あたしはラーメンの空き袋を片手に、商業施設の夜間照明基準の改定案に承認のサインを入れた。母さんが『二番は保留にしなさい、文面が曖昧だから』と耳元で囁く。

 五分が過ぎた。画面が消えた。

 あたしは懐中電灯を空き袋に向けた。景品の台紙には小さな字で「ひよこちゃんオリジナルストラップ 引換期限:平成15年3月」と印刷されている。平成十五年。何百年も前の日付だ。でもこのラーメンは先週の製造番号がついている。

 生体認証のログをもう一度見た。照合パネルが読み取った静脈パターンは、母さんのものと九十八パーセント一致していた。残りの二パーセントの差異は、加齢変化とも成長変化とも判定できる、と注釈がついている。

 あたしの知らない、母さんの血縁者。

 『……瑞希。除湿剤、入れなさいよ』

 母さんの声が、少しだけ震えていた。

 あたしは空き袋をポケットに入れて、ゲートのパネル裏に除湿剤を押し込んだ。景品の台紙は、なんとなく捨てられなかった。引換期限はとっくに過ぎている。届く宛先も、届ける相手もわからない。

 ポケベルが再び震えた。今度はただの定時連絡。「異常ナシ」と打ち返して、あたしは第七ゲートの灯りを消した。