錆びた噴水と、五分間の決議
──平成0x29A年 日時不明
いつのことかは分からない。ネットワークのタイムスタンプは「記録欠損」を示し、空の色は彩度を落とした平成の秋を模倣していた。
私は旧多摩エリアの端にある「あけぼの公園」のベンチで、使い込まれた折りたたみ端末を開いた。液晶画面には、解像度の低いiモードのサイト「i-内閣」が表示されている。パケット通信のインジケーターが点滅し、数秒のタイムラグを経て、私の個人識別IDに「第0x82F4内閣ユニット・内閣総理大臣」の権限が割り当てられた。期間は今から五分間。同時に、無数の「国民」がそれぞれのユニットで総理大臣に就任しているはずだ。
「……瞬、またその画面か。あまりのめり込むなよ。政治は実業だ」
耳の裏のデバイスから、祖父の声がした。相馬権造。享年七十二。生前は地方議会の片隅で、ドクトリンのアルゴリズムに忖度しながら生きていた男だ。倫理検査を通ったばかりの彼の声は、どこか平坦で、それでいて説教臭い。
「分かっているよ。ただのルーチンだ。党ドクトリンの差分を確認するだけだよ、おじいちゃん」
私は足元に落ちていた「ガス検針票」を拾い上げた。平成エミュレートの一環として、この地区には今も紙の検針票が配られる。実際には地中の超電導ラインからエネルギーが供給されているのだが、スマート家電である公園の街灯や噴水は、わざわざこの「検針票」に記載された数値をOCRで読み取ってから稼働する仕組みになっている。非効率だが、それがこの時代の「生活」だった。
手元の端末が震えた。政策変更リクエストが届いたのだ。
【リクエスト:公園区画302における噴水の夜間稼働・ライトアップの再開】
「景気対策か、それとも治安維持か」祖父が鼻で笑った。「昔の人間は、光る水を見るだけで安心したものだがね」
私はカーボンクレジット台帳のアプリを立ち上げた。この公園の年間排出枠は、すでに街灯の「レトロな暖色維持」に使い果たされている。噴水を動かすには、他の区画からクレジットを融通するか、あるいは「党」のアルゴリズムが示す署名解読(デコード)の負荷を肩代わりする必要がある。
「党ドクトリンによれば、現在の社会安定指数は『平成二十年前後』を推奨している。当時の噴水稼働率は……」
祖父が膨大な過去データを検索する音が、脳内でノイズとなって響く。私はiモードのメニューを操作し、承認ボタンの上にカーソルを合わせた。五分間の総理大臣。私の判断は、数十万の内閣ユニットの一つとして、連鎖的な合意形成(コンセンサス)の波に飲み込まれていく。
「瞬、承認は慎重にしろ。クレジットの台帳が赤字になれば、来月の君のスマート家電……その炊飯器の機能が制限されるぞ。また冷めた合成米を食べることになる」
「……それでもいいよ。暗い公園は、なんだか平成っぽくないし」
私は、親指一本で「承認」を押した。画面に『閣議決定:暗号アルゴリズム署名完了』の文字が躍る。私の総理大臣としての任期は、あと三十秒で終わる。
遠くで、錆びついた噴水のポンプが「キュルキュル」と悲鳴のような音を立てて動き出した。泥混じりの水が数センチだけ跳ね上がり、すぐに力尽きて止まった。どうやらスマート家電としての自己診断機能が、物理的な故障を検知したらしい。結局、クレジットは消費され、何も変わらなかった。
「無駄だったな」祖父が淡々と言った。
「そうだね。でも、音だけはしたよ」
私は端末を閉じ、ポケットにねじ込んだ。空からは、記録されることのない小雨が降り始めていた。次の「総理大臣」が誰になるのか、あるいはもう決まったのか、私には知る由もなかった。