夜明け前の検針票、土の匂いは課金制

──平成0x29A年01月16日 02:50

平成0x29A年01月16日 02:50。

ビニールハウスの中は、夜なのに昼みたいに明るい。LEDの白が葉の裏まで照らして、湿った土と肥料の匂いが鼻の奥に残る。

「寒いって言っても、こういうのは身体が覚えるんだよ」
耳元で祖母が言う。私のエージェント、北村フミ。享年七十六。葬式のときより、いまの声の方がはっきりしてるのが腹立つ。

私は腰のポーチから、ガス検針票を取り出した。紙の端が少し波打っている。ハウスの暖房はガス式で、月の締めに合わせてメーターを読むのが“うちのやり方”だった。

「検針票なんて、まだ使ってんの」
「使ってる。というか、使わされてる」

端末をかざすと、検針票のQRが読み取られて、すぐに赤い通知が浮いた。

【現行制度との差分断片:手書き検針票に基づく燃料補填申請】
【審査:要・党ドクトリン署名】
【署名取得:時間貸しCPU 推奨】

私は舌打ちした。燃料補填は本来、自動で相殺される。なのにうちの農協もどきは「紙で残せ」の平成ルールをやめない。紙で残した瞬間に“差分”扱いになって、誰かの閣議の机に飛ぶ。

「紙に書いて、はんこ押して、ってのが安心なんだよ」
祖母が懐かしそうに言う。
「安心のせいで、毎回CPU借りる羽目」

管理棟に戻ると、棚の上のブラウン管テレビが砂嵐みたいなノイズを吐いていた。リモコンの電池がへたって、角度を変えないと反応しない。

画面の端に、今日の作業BGMが重なる。MDデッキから流した九〇年代の歌を、端末のサブスクが勝手に“音質改善”して、妙に高域だけ現代っぽい。

私は端末で、時間貸しCPUの予約を押した。

【CPU-RENT 03:00枠(5分)】
【支払:収穫ポイント/ガス相殺/現金(不可)】

「ほらね、現金不可。平成のくせに」
「平成はね、現金もカードもポイントも全部あったの」
祖母が得意げに言う。

CPU枠までの数分、私は匂い再現デバイスのカートリッジを交換した。出荷前の品質チェックで使うやつだ。葉物の“青さ”が足りないと返品される。人間の鼻に戻ったと思ったら、今度は機械の鼻が基準を作っている。

デバイスが「再現」を始める。

—雨上がりの土。
—コンビニのビニール傘。
—新しい制服の糊。

最後の匂いで、喉がきゅっと縮んだ。私が高校に入った年、祖母が買ってくれたブレザーの匂いに似ている。

「ほら、覚えてるじゃない」
「……これは、ずるい」

03:00。
端末が震えて、CPUが接続された。
同時に、別の通知が割り込む。

【あなたは第0x7A3F1内閣ユニットの内閣総理大臣に選任されました(5分)】

胃が冷えた。こんなタイミングで。

祖母が笑う。
「おお、出世したねえ」
「やめて」

画面には、私の検針票申請と同じ種の差分断片がずらりと並ぶ。
【灯油配給を“御用聞き”経由に戻す】
【学校連絡をFAX優先にする】
【農業ハウス暖房の検針を紙に統一】

どれも、平成の安心を取り戻したい顔をしている。

私は自分の申請を開いた。党ドクトリン署名が必要、と表示されている。署名のアルゴリズムはもう半分、みんな解いてる。それでも“党の指”が触れた形にしないと通らない。

時間貸しCPUが、黙って計算を始める。回転音はしないのに、ブラウン管テレビのノイズが少しだけ細かく揺れて、まるで計算の息継ぎみたいだった。

祖母が言う。
「検針票、通るかね」
「通らなかったら、暖房止めるしかない。葉が凍る」
「じゃあ通しな。総理なんだろ」

私は“承認”を押しかけて、指を止めた。
承認すれば、紙の検針票は制度として延命する。うちだけじゃなく、全国の誰かが「紙の方が安心」と言い出すたび、差分が増える。CPUも、閣議も、夜の私も、ずっと割かれる。

でも、非承認なら、今月の補填が落ちる。
凍るのは葉っぱだけじゃない。

私は、申請本文の末尾に一行だけ足した。

【備考:検針票は次回より電子化。紙は記念保管とする】

“条件付き承認”。

党署名は通った。時間貸しCPUの残り秒数が、すっとゼロに落ちる。

総理の任期も終わり、端末が静かになった。
ブラウン管テレビだけが相変わらず砂を降らせている。

祖母が小さく鼻を鳴らす。
「記念保管って、何それ。あんた、平成の役所みたいな言い方するね」

私は笑いかけて、笑い切れなかった。
机の上のガス検針票は、次回から“記念”になる。

——記念って、だいたい、終わったものに貼るラベルだ。

匂い再現デバイスが、さっきの制服の匂いをもう一度だけ吐いた。
懐かしいのに、少し苦い。私の指先にはまだ、紙のざらつきが残っていた。