体育館の承認ログ
──平成0x29A年09月20日 17:40
自律型バスのシートが硬かったせいで、尻が痛い。ようやく終わった避難訓練の気だるさが、体育館の消毒液の匂いと混じって全身にまとわりついていた。
「はい、次の方どうぞー」
受付のテーブルに、僕は自分の認証端末を置いた。配給の合成栄養バーと水を受け取るための、ただの照合。のはずだった。
『……認証しました。高槻 悟 様。災害対策本部、指揮権限レベル3。お疲れ様です』
受付担当の若い男が、表示された文字を読み上げて、きょとんとした顔で僕を見た。僕も、彼の顔を見返した。指揮権限? レベル3?
「いえ、ただの訓練参加者ですけど。何かの間違いじゃ……」
「はあ……しかし、システム上はそう表示されてまして。エラーコードも出ていません」
脳内で、兄さんの声が冷静に響く。
《悟。落ち着け。これは単純な誤照合じゃないかもしれない》
亡くなった兄、譲(ゆずる)は、僕のパーソナル・エージェントになってからも元レスキュー隊員らしい口調が抜けない。
《ドクトリン・アルゴリズムの脆弱性を突いた権限昇格だとしたら、厄介だ。誰かがこの訓練の混乱を利用している》
見回した体育館は、訓練を終えた市民でごった返している。床では丸いロボ清掃員が静かに滑り、隅に追いやられた旧式の公衆電話が、使われてもいないのに「ジー…」と微かなノイズを漏らしていた。
ポケットに手を入れると、昨日ゲームセンターで余らせたメダルが数枚、指先に触れた。ずしりとした金属の感触だけが、妙に現実的だった。
「もう一度、照合してもらえませんか」
僕が言うと、受付の男は困惑しながらも頷いた。だが、結果は同じだった。「少々お待ちください。責任者を呼んできます」と言い残し、彼は足早に体育館の奥へと消えた。
その時だった。視界の隅に、ポップアップ通知が点滅した。
【第0x88A内閣ユニットより緊急閣議招集。あなたは内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間】
「兄さん、これ……」
《見るな、悟。罠だ》
だが、僕は見てしまった。指先が震える。議題は一つだけ。
『議案742-C:災害時における皇室遺伝子ネットワークの通信プロトコル優先度を、現行のレベルAから緊急レベルSへ引き上げる件』
《党のアルゴリズムはもう穴だらけだ。その穴を利用して、誰かが遺伝子ネットワークの制御を奪おうとしている。お前の誤照合された権限は、そのための鍵なんだ。承認するな。非承認もだめだ。何も触るな》
僕は息を呑んだ。承認か、非承認か。画面上の二つのボタンが、やけに大きく見える。残り時間は、4分を切っていた。
「お待たせいたしました、高槻さん」
声に顔を上げると、責任者らしき腕章をつけた男が立っていた。
「申し訳ありません。どうやらこちらの回線にノイズが乗っていたようで。システムの不具合でした。再度、照合させていただきます」
彼が手元の端末を操作すると、僕の認証端末がカチリと音を立てた。受付のディスプレイには、今度は正しく『一般市民』と表示されていた。
「ああ、良かった……」
ほっとして、僕は配給の栄養バーと水を受け取った。5分間の閣議招集通知は、いつの間にか画面から消えている。
すべて、単なるシステムの不具合。それで終わるはずだった。
脳内で、兄さんが静かに、そして冷たく告げた。
《悟。たった今、お前が総理大臣だった最後の3秒で、あの議案は『承認』された。お前のIDで》
自分の端末のログを開く。そこには、僕には全く身に覚えのない、鮮明な承認記録が残っていた。
背後で、公衆電話のノイズがふっつりと止んだ。
床を滑っていたロボ清掃員が、ぴたりと動きを止め、その円いカメラを、まっすぐにこちらへ向けた気がした。