連絡網の末尾に、署名は待つ
──平成0x29A年07月29日 15:00
俺の端末が震えたのは、ちょうど昼休みが終わる頃だった。
「第0x4A8内閣ユニット、あなたが総理大臣に選出されました。職務開始まで残り10秒」
画面に浮かぶ通知を見て、俺は思わず紙コップの水をこぼしかけた。第9通信保守区の詰め所で、同僚たちは各自の端末に向かって黙々と作業している。誰も気づいていない。
「おい、長谷川、どうした」
耳元で弟の声がした。正確には、弟のエージェントだ。享年22、交通事故。あれからもう8年になる。
「いや、ちょっと……5分間、総理やることになった」
「マジか。何が来るかな」
職務が始まると、すぐに閣議リクエストが流れ込んできた。学校の連絡網をデジタル化する際の個人情報保護レベルに関する変更申請。提出者は第15教育ブロックの保護者会代表。
「現行では紙ベースの連絡網に『ユビキタスセンサー網との連動禁止』が明記されているが、これを緩和し、登下校時の位置情報を保護者へ通知可能にしたい」
要するに、子どもの居場所を常時把握できるようにしろ、という話だ。
「承認する?」弟が聞いてくる。
「いや、待て。これ、党ドクトリンに引っかかるんじゃないか」
画面の隅に、署名用の量子乱数ロックが点滅している。俺は暗号アルゴリズムの教本を引っ張り出した。この詰め所には、なぜか平成初期の『暗号技術入門』とMDプレーヤーが並んで置いてある。音楽を聴きながら勉強する奴がいたらしい。
「署名鍵、生成できるか?」
「ちょっと待って……うん、いける。でも兄貴、本当にこれ承認していいの?」
弟の声に迷いがにじむ。俺も迷っていた。党ドクトリンは、プライバシー侵害に厳しい。だが、実際には解読されたアルゴリズムを使えば、形式上は通る。
残り時間は3分を切っていた。
俺はふと、自分の財布からポイントカードを取り出した。近所のスーパーの、紙のやつだ。裏にはスタンプが押してある。8個貯まると100円引き。こんなアナログなもの、今どき誰が使うんだと思っていたが、俺は捨てられずにいた。
「兄貴?」
「……非承認にする」
「え?」
「連絡網は紙でいい。センサーと連動させる必要はない」
俺は署名鍵を生成し、非承認の閣議決定を確定させた。量子乱数ロックが一瞬光り、処理が完了する。
「理由は?」
「紙の連絡網なら、隣の家まで届けに行く理由ができる。そこで少し話す時間も生まれる。それでいいじゃないか」
弟はしばらく黙っていた。
「……兄貴、それ党ドクトリン関係ないよね」
「関係ない」
職務終了の通知が届いた。5分間の総理大臣はこれで終わりだ。俺は端末を置き、紙コップの水を飲み干した。
「でもさ、兄貴」弟が言った。「その理由、閣議の記録に残っちゃってるよ」
「……マジか」
「うん。『紙の連絡網なら隣の家まで届けに行く理由ができる』って、そのまま」
俺は頭を抱えた。全国の第0x4A8内閣ユニット関係者に、俺の妙にセンチメンタルな理由が共有されている。
「恥ずかしい……」
「大丈夫、5分で次の総理に交代するから、誰も覚えてないって」
弟は笑っている。俺も、少しだけ笑った。
詰め所の外では、通信インフラの保守作業が続いている。光ファイバーと銅線が混在する旧式のネットワーク。俺たちはそれを、今日も淡々と守っていく。
ポイントカードを財布にしまいながら、俺は思った。紙のスタンプも、悪くないな、と。