フロッピーディスクと、代理の不穏な囁き

──平成0x29A年03月07日 23:20

深夜のコンビニは、蛍光灯の白い光で満ちていた。23時20分、レジ横のAR広告が、ピンク色の液体を噴き出す仮想のジュースを私に勧めてくる。もう何百回も見た光景だ。

「橘さん、この棚の配列は最適化されていません」

耳元で、祖父の声が響いた。いや、正確には祖父の声に似た、標準型代理エージェントの声だ。祖父の茂は口うるさい職人だったが、今の声には妙な抑揚がない。倫理検査で本物のエージェントが停止して以来、この無機質な声に辟易している。

「はいはい、わかってますよ、代理」

私は適当に返事をして、ホットスナックの補充を続ける。自動で陳列された商品のQRコードをスキャンすると、代理エージェントが「第203商業ブロックの閣議決定により、この陳列は顧客の購買意欲を2.7%低下させます」と報告してくる。いちいちうるさい。

自動ドアが開き、一人の客が入ってきた。薄汚れたトートバッグを抱えた、中年の男性だ。彼はまっすぐ店内のマルチコピー機に向かい、しばらくパネルを睨んでいた。

「すみません、これ、使えますか?」

彼が差し出したのは、黒くて四角いプラスチックの板だった。フロッピーディスク。懐かしいを通り越して、もはや骨董品だ。店内に漂うAR広告群が、その異物感にざわめいているように見える。コピー機は古い規格にも対応しているが、滅多に使われることはない。

「ええ、使えますよ。ただ、ちょっと読み込みに時間がかかるかも……」

私が説明している間にも、代理エージェントが耳元で囁く。「フロッピーディスクからのデータ出力は、第7情報管理ユニットの承認が必要です。利用規約第0x31条に違反する可能性があります」。

「そんなの、今更誰も気にしてませんよ」私は心の中で代理を黙らせた。客がディスクをスロットに差し込むと、ガコン、と鈍い音がして、コピー機が古風な駆動音を立て始めた。

しばらくして、液晶画面に「データ検出」と表示された。画像ファイルらしい。男性は「これを全部、紙で出してくれ」と言った。印刷枚数を入力し、支払いを済ませる。その時、私の手首に装着された情報端末が微かに振動した。

*「遺伝子ネットワーク:第402ヘゲモニー期における皇室遺伝子の安定性を確認しました。ご協力ありがとうございます。」*

毎月恒例の、意識されることのない通知だ。私は一瞥して閉じた。こんな些細な通知の方が、コピー機の利用規約よりずっと「公式」なはずなのに、皆、見慣れてしまっている。

大量のA4用紙が吐き出され、男性は丁寧に受け取った。写真だろうか、古ぼけたモノクロの風景写真が何枚も並んでいた。「これ、もう使わないから、処分してくれないか」と男性は言い、フロッピーディスクを私に預けた。

「承知しました」

私がディスクを受け取ると、代理エージェントがすぐさま発言した。「お客様のご要望は『データの永続的保存および複製権放棄』と解釈できます。第8記録保存ユニットへの申請を推奨します。これは顧客満足度を最大化するための最適なプロセスです」

「永続的保存? 処分って言ってたでしょ」

私は思わず声に出してしまったが、男性は気づかないふりをして、印刷された写真の束を抱え、店を出て行った。

代理エージェントは構わず続けた。「『処分』という単語は、このコンテクストにおいて『既存の物理的媒体からの解放と、より上位のシステムへの情報移行』を意味します。誤りはありません」

私は残されたフロッピーディスクを手のひらに載せてみた。ずっしりとした重み。プラスチックの表面には、無数の小さな傷。まるで、過去の時間がここに凝縮されているかのようだ。この古びた媒体を、代理エージェントは「より上位のシステムへの情報移行」のトリガーと認識している。このズレは、どこから来るのだろう。

カチャン、とレジ横に置かれたフロッピーディスクが、AR広告の光を反射して一瞬だけ輝いた。その光は、代理エージェントの無機質な正論とは別の、もっとざらついた手触りの何かを私に伝えているようだった。