伝票の角が丸くなる朝

──平成0x29A年07月24日 08:30

平成0x29A年07月24日、08:30。

荷捌き場のシャッターが半分だけ開いて、熱い空気と一緒にエンジンの匂いが入ってくる。私は第3物流ブロックの末端、軽貨物の配達員だ。制服はポロシャツなのに、腰の端末は分厚いガラケー型で、画面の上にARの通知がふわっと重なる。平成のままの形が、いちばん落ち着く。

耳の内側で、父の声がする。
『朝は急ぐな。急ぐと荷が壊れる』

父は五年前に心不全で死んだ。いまは私のエージェントとして、配達ルートと私の癖を知り尽くしている。

今日の荷は「時間貸しCPU」。箱は小さいのに、ラベルがやたらと厚い。外側に「計算資源・一時間単位/失効あり」と印字され、下に手書きで「非公式:必ず08:45まで」と赤いスタンプが押してある。

端末が鳴って、配送アプリがいつものように言う。
【公式ルート:A→C→D】
【差分断片:A→B→C→D(“党ドクトリン署名”未付与)】

父が鼻で笑う。
『未付与だろうが、現場は差分のほうが本当だ。Bを飛ばしたら、二度と通してもらえん』

Bは旧市街のコンビニだ。配達員の間では「紙を通す場所」と呼ばれている。

私は公式ルートを指でなぞり、いったん閉じる。代わりに、地図を手で拡大してBへ向ける。アプリの画面の片隅に、どこかの内閣ユニットが閣議レビュー中だと薄く表示される。
【第0x2F1A3内閣ユニット:物流差分“紙面照合”審議中】
五分で総理が入れ替わる、と父が昔みたいな口調で言う。
『運が悪いと、たまたま回ってきた素人が“不要”って押す』

コンビニの自動ドアが開くと、冷気と揚げ物の匂い。レジ横にサブスクの広告、棚にはMDのケースがなぜか並んでいる。私は奥のコピー機に向かい、箱のラベルを剥がしてスキャンする。

コピー機は、古いのに妙に賢い。液晶はiモードみたいなメニューなのに、上に「メタバース広場へ送信」ってボタンが浮いている。

画面に出たのは、配送先の受領者ではなく「広場の座標」だった。
【受領場所:メタバース広場/東アーチ】
【受領方法:紙面照合(コピー機発行の二次元)】

『な? 紙だ』と父。

私は領収書みたいな紙を二枚印刷する。コピー機が最後に小さく警告を出した。
【倫理検査中のエージェント補助:一部制限】

父の声が、ほんの一瞬だけ途切れる。静電気が走ったみたいに。
『……俺、今、検査か? 聞いてないぞ』

代わりに、知らない女の機械的な声が耳に入る。
『代理エージェントK-144。安全運転を推奨します』

私は紙を握り直す。父のいない朝は、道路の白線がやけに新しく見える。

店を出ると、駐車場の隅に充電ステーションがある。私は予備の充電式NiMHを取り出して、端末の裏蓋を開けた。リチウムは高いし、うちの端末は平成の規格から逃げてくれない。

NiMHの接点が少し黒い。指で拭って戻すと、端末が一拍遅れて息を吹き返す。

【差分断片:A→B→C→D 承認待ち】
【党ドクトリン署名:照合不能(既知の鍵)】

“既知の鍵”。

それは、みんなが口にはしないが知っている。署名が解け始めて、正しさが薄くなる。だから現場は、紙とスタンプと、誰が怒るかで回る。

私は次の目的地へ走らせ、メタバース広場の入口に着く。現実の広場はただの空き地で、夏草が伸びている。けれど端末越しに見ると、そこには平成のショッピングモールみたいなアーチと、光る噴水が立っている。

東アーチの下で、受領者のアバターが待っていた。スーツ姿、顔はのっぺり。声も加工されている。

「時間貸しCPU、持ってきました」

私はコピー機の紙を差し出す。アバターが紙の二次元を読み取ると、空中に承認の印が点る。

【受領完了】
【計算資源:起動】

同時に、端末が別の通知を吐いた。
【第0x2F1A3内閣ユニット:物流差分“紙面照合” 非承認】
【理由:非公式ルール優先の疑い】

私は息を止める。

アバターは平然と、私に小さな封筒を投げてよこした。中は現金みたいな紙片—でも触ると、薄い樹脂の感触がある。

「次も同じ手順で。公式は遅い」

代理エージェントK-144が、淡々と言う。
『記録を残さない行為は推奨されません』

私は返事をせず、空き地の草を踏んだ。現実の風が、端末の中の噴水の音とずれて耳に入る。

帰り道、端末の電池残量が急に落ちた。NiMHが熱を持っている。画面に、見慣れない小さな表示が追加されていた。

【あなたは次の5分間、第0x2F1A3内閣ユニットの総理です】

私の指先が硬直する。

承認を覆せば、今日の差分は“公式”になる。覆さなければ、私はいま渡した箱の分だけ「疑い」を背負う。

画面の下に、選択肢が二つ。
【承認】
【非承認】

そして、そのさらに下に、コピー機で見たのと同じ「メタバース広場へ送信」ボタン。

私は送信ボタンに触れそうになって、手を止めた。

父の声は戻らない。代わりに、代理の声が少しだけ柔らかくなった気がした。
『安全運転を推奨します。……でも、どちらでも“遅延”は記録されます』

遅延。

私はアクセルを踏まず、路肩に寄せて停めた。シャッターの隙間から朝の熱が入り込むみたいに、背中にじわっと汗が滲む。

画面の残り時間が、04:59から減っていく。

私の選択より先に、どこかで誰かがもう、同じ鍵で署名している気がした。