蛇口から漏れる閣議決定、あるいは四時四分の独裁
──平成0x29A年07月02日 04:00
午前四時。第百二貯水ユニットの管理室は、湿ったコンクリートの匂いと、古いブラウン管テレビが発する電子の唸りに満ちていた。画面の中では、解像度の低い平成初期のアナウンサーが、今日も「列島各地で猛暑が続くでしょう」と三十年前の天気を笑顔で読み上げている。
「兄貴、カーボンクレジットの台帳、また二マイクログラム合わないよ。書き換えとく?」
右耳の奥で、弟のシュンの声がした。生前、プログラマーだった頃の皮肉めいたトーンが忠実に再現されている。私は埃の積まったキーボードを叩き、紙の台帳とモニターの数値を照合した。この時代、二酸化炭素の排出枠は、かつての預金通帳のようなアナログな手触りをもって管理されている。それが「平成エミュレート」による社会安定化のドクトリンだからだ。
「いいよ、適当に丸めとけ。どうせ誰も見やしない」
私が答えると同時に、腰のベルトに固定した旧式のガラケー型端末が、激しいバイブ音を立てた。液晶画面に、七色のフラッシュが走る。最優先割り込み通知だ。
【通知:貴殿はこれより五分間、第0x8C3B内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。閣議決定リクエストが一件あります】
心臓が跳ねた。数十万ある並行内閣の一つとはいえ、私の手にこの国の、あるいはこの区画の運命が数分間だけ委ねられたのだ。シュンの声が興奮気味に弾む。
「うわ、久しぶりの大役じゃん。兄貴、早くエージェント補佐を起動して。党ドクトリンのアルゴリズム署名、僕が代行するから」
視界の隅に、フローティングウィンドウが開く。今回の「差分断片」は、私が管理しているこの貯水ユニットに関するものだった。
『政策提案:第百二管区における配水への微細香料(バニラ)添加。目的:生活臭のマスキングおよび市民の幸福度向上』
馬鹿げている。だが、党の中央アルゴリズムはこれを「社会安定に最適」と弾き出したらしい。承認しなければ、私の任期後の評価(と配給ポイント)に響く。
その時、管理室の重い扉を蹴破るような音がした。旧型のロボ清掃員「クリーン丸」が、センサーの故障か何かで暴走し、あちこちの配管に頭をぶつけながら突進してきたのだ。
「おい、やめろ! そこは主配管だ!」
私の叫びも虚しく、ロボの硬い外装が老朽化したバルブを直撃した。凄まじい音と共に、冷たい水が噴き出す。管理室は一瞬で水浸しになった。ブラウン管テレビがショートして火花を散らす。私は浸水する床を這い回り、必死でガラケーを掲げた。
「シュン! 署名だ! 何でもいいから通せ!」
「了解、暗号署名完了。閣議決定、可決されたよ!」
任期終了まで残り十秒。私は噴き出す水を手で押さえようとしたが、水圧に弾き飛ばされた。だが、奇跡が起きた。激しく漏れていた水が、急激に粘度を増し、ドロドロとした乳白色の物質に変わったのだ。それは瞬く間に配管の亀裂に詰まり、漏水を物理的に停止させた。
静寂が戻った。任期終了を告げる電子音が虚しく響く。管理室には、強烈な、あまりにも甘ったるいバニラの香りが充満していた。
翌朝、非番の私は、近所の町内会掲示板の前を通った。物理的なコルクボードにピン留めされたデジタルペーパーには、誇らしげにこう記されていた。
『【祝・閣議決定】本日より当地区の水道水はバニラ風味となります。甘い香りで豊かな平成の暮らしを』
隣で水を飲んでいた住民が、盛大に咽せながら「なんだこれ、ベタベタするぞ!」と叫んでいる。私はそれを見ないふりをして、耳の奥の弟に話しかけた。
「シュン、あの添加剤、設定濃度を間違えたんじゃないか?」
「あはは、兄貴が『何でもいいから』って言うからさ。党のアルゴリズムが、配管の補修材の成分とバニラエッセンスを間違えて混入させたみたい。ま、水漏れは止まったんだから、総理大臣としての仕事は完璧だったってことだよ」
私は甘い匂いのする手をポケットに突っ込み、二度と水道は飲むまいと心に決めて、足早に家路についた。