掲示板の白い画鋲
──平成0x29A年11月29日 23:50
23:50。団地の廊下は、蛍光灯が一つおきに死んでいて、夜の端がギザギザしている。
私はゴミ出しのついでに、1階の町内会掲示板の前で足を止めた。透明カバーの内側に、紙が増えている。印刷の黒が濃くて、インクの匂いまで新しい。
「回覧じゃなくて、貼り出し一本化だってさ」
耳の奥で、父の声がした。父エージェント――隆(たかし)、享年62。脳梗塞で倒れてから、私の補助になった。
掲示板の一番上には、太いゴシックで。
『アナログ手続き復権週間(11/30〜)
町内会関連の申請は「紙」提出を原則とします』
その下に、提出先と時間。
『提出箱:管理室前
受付時間:06:30〜07:15/19:00〜20:00
必要書類:自治差分申請票(所定用紙)・本人確認コピー』
私は笑いもしないで、息だけ吐いた。明日から、また紙。
父が言う。「ほらな。便利すぎると、いざってとき詰まる。紙は燃えねえ……いや、燃えるけどな」
掲示板の隅に、小さな注意書きがあった。
『脳波UIでの入力は、下書き作成まで。提出は必ず手書き署名を含むこと。
※自動署名はカーボンクレジット台帳との整合性監査のため停止中』
脳波UI。
私は右こめかみの下、髪の内側に貼った薄い電極パッドを指で押さえる。温度のない感触。さっきまで部屋で、頭の中で「自治差分申請票」と念じれば、フォームが視界の端に浮いた。平成の昔みたいなiモード風の縦長メニューで、文字がカクカクしているのに、背景にだけAR広告がぬるっと重なる。
『冬のあったか煮込み 定額食べ放題サブスク』
父が鼻で笑う。「メニューは古いのに、宣伝だけ新しい。お前らの時代、変だな」
「私の時代っていうか……」
私は掲示板の二枚目を見る。
『各戸に配布済みのNiMH充電池(単3)を、町内会無線チャイム用に持参してください。
※リチウム系は台帳上の排出係数が高く、今週は交換不可』
NiMH。今どき、わざわざ。
ポケットの中で、単3が二本ぶつかって、かすかな乾いた音がした。管理室から配られた「地域連絡チャイム」用。スマホもあるのに、停電や通信障害の時は、あのチープなピンポン音が廊下に鳴る。
父が言う。「ニッケル水素は昔からある。繰り返し使える。こういうのは、残るんだよ」
私は掲示板を閉じた。透明カバーの留め具が固くて、指の腹が少し痛い。
帰り際、管理室前の提出箱が見えた。金属の箱。投入口の縁が擦れている。誰かが既に一枚、紙を差し込んでいた。角が少し折れている。
廊下の端で、隣の部屋の中学生が、MDプレーヤーみたいな古い外付けスピーカーに接続して、ストリーミングのランキングを流していた。低音だけが壁を薄く叩く。
私は部屋に戻り、机の上に単3のNiMHを置いた。充電器は、父の遺品の中にあったやつだ。ランプが赤く点いて、遅い。
脳波UIを起動して、申請票の下書きを開く。『町内会共有部の照明交換頻度の差分』。切れてる蛍光灯、また増えたから。
父が言う。「それ、前にも出しただろ」
「前は却下だった。今は復権週間だから、通るかも」
「通るかどうかは……」
父の言葉が途中で切れた。私の視界の片隅に、小さな通知が点滅した。
『第0x29A1129-2350 内閣ユニットより:差分レビュー協力要請(5分)』
私は一瞬、手を止める。胸が跳ねるほどではない。ただ、こういうのが来る。
父が低く言う。「お前、今……」
「うん」
視界の中で、フォームが切り替わる。無機質な議題一覧。どれも「現行制度との差分断片」。
その中に、一つ。
『地域手続きの手書き署名義務化(限定期間)/カーボンクレジット台帳整合性のため』
私は、さっき掲示板で読んだ文面を思い出す。紙。提出箱。NiMH。脳波UIは下書きまで。
父が言う。「お前の団地のやつ、もう決まってるんじゃねえのか」
私は、淡々と「承認」を選んだ。指は動かさず、頭の中で。
脳波UIが私の選択を受け取り、暗号署名の進行バーが走る。だが最後に、細い赤字。
『党ドクトリン署名検証:部分一致(既知の解読済み鍵と競合)
→ 物理署名の提出を推奨』
私は笑わなかった。父も何も言わない。
机の引き出しから、ボールペンを出す。インクはまだ出る。申請票をプリントするために、古い複合機の電源を入れる。起動音が、平成の家電みたいに大げさだ。
紙が出てきて、熱を持っている。
私は自分の名前を書いた。字が少し震えたのは、寒いせいにした。
明日の朝、提出箱に入れる。照明がまた切れても、交換が遅れても、たぶん生活は続く。
父の声が、少しだけ柔らかくなる。「ほら。お前、ちゃんと役に立ってるじゃねえか」
私は、単3のNiMHを充電器から外して、ポケットに入れた。重さは、昔から変わらない。