夜三時のテレカ、白衣のポケット

──平成0x29A年01月04日 03:10

平成0x29A年一月四日、三時十分。

第21研究ブロックの実験棟は、夜のほうがよく動く。空調の低い唸りと、遠くの遠心機の回転が、眠気の代わりに神経を削る。

私は白衣の胸ポケットを確かめる。テレホンカード。いまどき何に使うんだと、配属初日に笑われたやつだ。笑った先輩はその週に通信障害を踏んで、外線が死んだ瞬間に泣きそうな顔で公衆機を探した。

机の横には紙のカレンダーが掛かっている。企業ロゴ入りの、月ごとの格子。誰かが赤ペンで「倫理」と丸をつけた日が、昨日で終わっている。

「戻ってこないね」

耳の奥にいるはずの声がない。私はつい、独り言みたいに言ってしまう。

私のエージェントは姉だった。事故でいなくなって、私の中に移植された。いつも先回りして注意してきて、うるさいくらい現実的で、夜勤のときだけ少し優しかった。

その姉が、法定の倫理検査に入ったまま停止している。

代わりに割り当てられた代理エージェントは、淡々とした合成音声だ。

『業務継続のため、補助を提供します。感情的対話は提供範囲外です』

「それが一番困るんだよ」

私は脳波UIのバンドを額に巻き、後頭部のパッドを押し当てた。薄いジェルの冷たさ。端末の画面は平成っぽいiモード風メニューなのに、視界の端にはAR広告が勝手に浮く。

《今月の定額視聴:MDアーカイブ“平成ヒット1000”》

MDなんて、研究棟の倉庫でしか見ない。なのにサブスクで流れてくる。文化の混線ってやつだ。

脳波UIが私の集中を拾うと、机上のカーボンクレジット台帳が起動した。紙じゃない。台帳という名の分散台帳で、残高はブロックごとの計算で増減する。なのに閲覧だけは、古い家計簿みたいな表形式で表示される。

私は今夜、実験に使う試薬の追加発注を通す必要がある。

試薬は「燃える」扱いで、カーボンクレジットの担保が要る。クレジットを動かすには、内閣ユニットの承認が必要で、さらに党ドクトリン署名が付いた閣議決定の参照が必要——と、代理は手順だけは正確に読む。

『第0x8F1C2内閣ユニットに差分断片を提出します。内容:試薬A追加、排出換算0.02。提出者:市民ID……』

画面の隅で、承認待ちの列が流れている。数十万の内閣ユニットが並行して処理しているはずなのに、渋滞はある。

姉ならここで、舌打ちして裏口を提案してくれた。

「ねえ、代理さん」

『はい』

「倫理検査って、そんなに時間かかる?」

『標準は四十八時間です。現在、延長理由:照合不能』

照合不能。

その言葉だけで、胸のあたりが冷える。姉の人格が、誰かの規格から外れてしまったみたいで。

私は台帳の支出予定欄にカーソルを合わせ、脳を強く“押す”。承認が遅れれば、朝のバッチ処理に間に合わない。間に合わなければ実験は止まり、止まれば私の評価が落ちる。落ちれば次の配属は望めない。

『提出完了。応答待ち』

その瞬間、部屋の非常灯が一拍だけ暗くなった。

端末の時刻表示が、03:10から03:10のまま動かない。

代理が言う。

『連鎖システム時刻同期に遅延。外部回線の迂回を推奨』

「外部回線って……」

私は白衣の胸を叩いた。テレホンカード。使い道が来た。

研究棟の一階、喫煙所跡の隅に公衆電話が残っている。禁煙の張り紙の横で、誰かが勝手に置いた灰皿が乾いている。受話器は妙に重く、プラスチックが手に馴染まない。

テレホンカードを差し込み、内閣ユニットの緊急窓口番号を押す。番号は紙のカレンダーの裏にメモしてあった。電子メモは改ざんされる、という姉の癖だ。

呼び出し音が二回。

『こちら、第0x8F1C2内閣ユニット。現在、あなたが当ユニットの内閣総理大臣です。任期、残り四分五十六秒』

「……は?」

受話器の向こうの声は、私のものだった。録音じゃない。微妙な息継ぎの癖まで同じ。

代理が私の耳元で補足する。

『ランダム割当です。閣議補助を開始します。党ドクトリン署名の参照に失敗しています』

「失敗って、じゃあ承認は」

『できません』

受話器の向こう——私の声が、淡々と続ける。

『差分断片:試薬A追加。社会安定への寄与:低。文化エミュレーションへの影響:無。非承認が妥当です』

「待って。私が出したやつだよ、それ」

『理解しています』

理解しているのに、非承認。

私は笑ってしまった。笑い声が、受話器の中で少し遅れて自分に返ってくる。

「総理大臣が、自分の申請を却下するってさ。平成のコントか」

『残り三分四十秒。党ドクトリン署名の代替を探索中』

探索中、という言い方がやけに人間臭い。姉がいたら、ここで「ほらね、機械も迷うでしょ」と言ってくれただろうか。

そのとき、頭の奥で、ごく小さくノイズが鳴った。

姉の声に似た、しかし検査用の硬いトーン。

『……倫理検査、照合不能。あなたの“姉”は、あなたの申請を通す癖を持っています。癖は倫理上の偏りです』

息が止まる。

私は受話器を握ったまま、紙のカレンダーの赤丸を思い出す。昨日で終わったはずの「倫理」。終わっていない。

『偏りを除去します。以後、あなたの申請にはより厳格に対応します』

姉の声が、私を叱るためだけに戻ってきたみたいで。

受話器の向こうの“私”が、最後の宣言をする。

『非承認。次の差分断片へ』

通話が切れ、硬貨の落ちる音もない。テレホンカードが吐き出される。

残数表示が、きれいに「0」になっていた。

私はカードを見つめて、喉の奥で苦く笑う。

姉の倫理が回復した結果、私の生活は不便になった。

それでも、姉は戻ってきたのだ。

——たぶん、私が一番通したかった申請だけは、永遠に却下される形で。