八時の針が鳴る場所
──平成0x29A年04月18日 08:00
平成0x29A年04月18日。治安ブロックの監視詰所は、朝八時の空気だけがやけに乾いていた。
壁のアナログ時計が、カチ、カチ、とわざとらしい音を立てる。上司は「電子は誤差が出る」と言うけど、誤差が出るのは人のほうだ。
入室ゲートで腰の鍵束を鳴らす。家の鍵、詰所の鍵、ロッカーの鍵、そして古いMDケースに付けたキーホルダー。いまどきMDなんて、と笑われるけれど、私の端末はガラケー型で、ストリーミングの再生履歴だけは妙に賢い。平成が混線したまま、ここまで来た。
「おはよう。眠そうだね、栞」
耳の奥、脳波UIの接点が微かに熱を持って、声が立ち上がる。妹の玲奈。享年二十。雨の日に車が滑った。
「眠いよ。今日もメタバース広場、巡回?」
「うん。朝の広場は、現実より人が多い。現実は通勤で忙しいから」
私の仕事は、メタバース広場に浮かぶ違反広告や、煽動の断片を目で拾って、フラグを立てること。監視というより、掃除に近い。掃除の結果が誰の目に届くのかは、よく分からない。
広場の空は、広告スキンでいつも晴れている。アバターたちはスーツ姿と制服姿が混ざり、誰かが「令和新作」と書かれた屋台で平成のたこ焼きを売っている。矛盾が矛盾のまま、風景として固定されている。
脳波UIで意識の焦点を寄せると、違反判定のオーバーレイが立つ。玲奈が横から、私の迷いを先読みして言う。
「それ、ただの愚痴。危険度は低い」
「でも、党ドクトリンの…」
「“党”って言葉だけで引っかけるのは古いよ。ほら、ここ。署名パターンが違う」
玲奈は私よりずっと正確だ。生前は理系でもないのに、移植されてから数字の癖を覚えた。倫理検査の通知が来るたび、私は怖くなる。検査中は代理エージェントに替わる。玲奈がいなくなる時間が、世界でいちばん長い。
そのとき、詰所の端末が短く鳴った。
《第0x8C1D7 内閣ユニット:臨時職務割当》
《あなたは次の5分間、内閣総理大臣です》
喉が変な音を立てた。朝のコーヒーが気道に迷う。
「来たね」玲奈が淡々と言う。「深呼吸。ほら、針がちょうど……」
アナログ時計の秒針が、八時ぴったりを噛んだ。
視界が切り替わる。メタバース広場の空が一瞬だけ白くなり、政策変更リクエストの“差分断片”が列をなして降ってくる。監視詰所の机が、いきなり閣議室みたいな顔をする。
《差分:広場内“鍵の束”アイコンの使用禁止(暴力連想のため)》
《差分:脳波UIのログ保持期間を延長(治安維持目的)》
《差分:巡回員の在宅鍵束登録を義務化(出入口照合)》
手が冷えた。どれも、私の腰の重みと直結している。
「栞、落ち着いて」玲奈が言う。「この署名、ほとんど解けてる。形式だけ。だからこそ、君の“選ぶ”が残る」
私の脳波UIに、署名欄が現れる。党ドクトリン準拠の暗号署名を、エージェント補助つきで押すだけのはずが、今回は妙に“問い”が大きい。
鍵束アイコンの禁止。笑える。広場の子どもたちが、家の鍵の束をジャラジャラ鳴らすエモートで遊んでいるのが危険?
ログ保持の延長。治安のため、という言い方はいつも綺麗だ。脳波UIの揺れまで保存されたら、私の迷いも、玲奈との会話も、いずれ誰かの“差分”になる。
在宅鍵束登録の義務化。帰宅時の照合が早くなるかもしれない。けれど、家の鍵の束は、私の生活の最後の手触りだ。登録されて、番号にされて、どこかのユニットにぶら下げられたくない。
「どうする?」玲奈。
私は、メタバース広場の屋台の喧騒を遠くに聞きながら、ひとつだけ承認し、ふたつを非承認にした。
承認したのは“鍵の束アイコンの禁止”。小さな遊びを奪うのは嫌だったけど、そこだけは撤回が効く気がした。ログと鍵束登録は、いったん延ばしたら戻らない。
署名が走る。党ドクトリンのアルゴリズムは、古い歯車みたいに軽く噛み合って、私の意思を薄い紙にして遠くへ送った。
《職務終了:内閣総理大臣》
五分が終わった途端、詰所の空気が戻る。アナログ時計の音だけが、さっきより大きい。
「おつかれさま」玲奈が言う。
私は腰の鍵束を握った。金属が手のひらに食い込む。
「玲奈、もし次の倫理検査で…」
言い切る前に、玲奈が笑う。
「継いでいくしかないよ。私の分まで、ってやつ。平成っぽいでしょ」
それが妙に切なくて、私は返事ができなかった。
詰所端末がまた鳴る。今度は巡回の自動指示だ。
《メタバース広場:鍵束アイコン検出。削除を開始します》
私は広場に視線を戻した。子どもたちのジャラジャラは、もう消えている。
玲奈の声が小さくなる。
「ね、栞。次は……もっと上手に、残して」
アナログ時計の針が進む。私の鍵束だけが、相変わらず重いままだった。