倫理検査室の紙の匂い、継がれなかった周波数
──平成0x29A年07月18日 15:40
午後三時四十分、第16治安ブロック倫理検査室の空調が止まった。
七月の熱気がすぐに壁を這い上がってくる。私はデスクの引き出しからうちわを出し、検査端末の前で扇ぎはじめた。画面にはスケジュールが並んでいる。今日の午後は被検体が四件。うち二件が終わり、三件目の被検体データが転送待ちのまま止まっている。
「転送遅延が発生しています。推定復旧時刻は——」
天井のスピーカーから合成音声が流れた。抑揚のない女声。平成何年のものを参照しているのか、語尾だけ妙に丁寧で、まるでデパートの館内放送みたいだ。推定復旧時刻は告げられないまま、アナウンスは途切れた。
「……亮介さん」
右耳の自動翻訳イヤホンが震えた。検査室では外部通信を遮断しているから、エージェント経由の内部音声だけが届く。
「なに、父さん」
父——長峰 義春。享年五十七。心臓発作だった。生前は同じ治安ブロックの巡回監視員で、この検査室にも被検体側として何度か来ていたらしい。
「三件目、宮野さんのところのエージェントだろう。あの人の旦那さん、おれの後輩だったよ」
「知ってる。だから担当を替わろうかって言ったのに、課長が人手不足だって」
父は黙った。彼が黙るときは大抵、言いたいことを飲み込んでいる。生前と同じ癖だ。
転送待ちの間、私は棚から資料を引っ張り出した。紙の電話帳。第16治安ブロック内線録、と背表紙に印刷されている。三年前に刷ったきり更新されていない。検査室の回線が落ちたとき、物理内線で技術課を呼ぶための最終手段。ページをめくると、黄ばんだ紙の匂いがした。父が好きだった匂いだ。古い書類の、少し甘い腐敗。
「五階の技術課、内線変わってないかな」
「変わってないよ。2-5-0-8」
父は電話帳より正確だった。
受話器を取り、ダイヤルを回す。プッシュ式の筐体なのにダイヤル音がする。誰も不思議に思わない。技術課の若い職員が出て、空調と転送の復旧は同時になる、あと二十分、と言った。
受話器を置いて、デスクの上に広げたままの紙の地図を畳んだ。第16ブロックの監視カメラ配置図。先週の定期巡回で父が「ここ、死角が増えてる」と指摘したポイントに赤丸をつけたものだ。本来は電子データで管理するが、検査室内ではセキュリティ上、紙に転写して使う。
三件目の被検体データがようやく届いた。
宮野 孝之。享年六十一。胃癌。元巡回監視員。妻・宮野 敦子のエージェントとして稼働四年。
倫理検査は、人格データの逸脱値を測定する。生前の人格パターンからどれだけ乖離しているか。閾値を超えれば再調整、最悪の場合は凍結される。検査の間、宮野さんのエージェントは停止し、敦子さんには代理エージェントが割り当てられる。型番S-γ08。無機質な応答しかしない、あの灰色の声。
数値を読んでいくと、逸脱は軽微だった。生前の記録と照合しても、ほぼ宮野孝之のままだ。ただ一箇所、感情応答の「悲嘆」パラメータが異常に低い。
「……父さん、これ」
「見えてる」
悲嘆が低いということは、悲しみに鈍くなっているということだ。妻のそばにいて、彼女の悲しみを受け止める機能が、少しずつ摩耗している。
「再調整かけたら、戻るかな」
父はまた黙った。それから、小さく言った。
「おれも最近、おまえが辛そうなとき、前ほどうまく言葉が出ないんだ」
指が止まった。
検査官である私が、自分のエージェントの逸脱に気づかなかった。いや、気づいていて、見ないようにしていたのかもしれない。
宮野孝之の数値を承認済みに切り替えた。軽微逸脱、経過観察。凍結も再調整もしない。
四件目のファイルを開く前に、私は電話帳を棚に戻した。背表紙の文字が少しかすれていた。
「父さんの検査、次いつだっけ」
「来月の八日」
「担当、誰になるんだろうな」
「おまえ以外の誰かだよ。規定だろ」
空調が復旧した。冷たい風が首筋を撫で、紙の地図の端がわずかに揺れた。
父が悲しみを忘れていくこと。それを止める技術はある。でも止めたとして、父は——父のままなのだろうか。
合成音声が再び流れた。「空調システムが復旧しました。ご不便をおかけしました」
丁寧すぎる語尾が、やけに静かな検査室に残った。