受付番号のない夜、FAXが吐く体温
──平成0x29A年10月11日 23:20
夜の十一時を過ぎた観光案内センターに、人が来ることはまずない。
私は受付の椅子に深く座り、カウンターの上に投げ出した磁気定期券を指先で弾いていた。第10観光区の職員定期。裏面の磁気帯が少し剥がれて、改札を三回に一回は弾かれる。いいかげん再発行したいが、窓口は平日の九時から五時だけだ。平日の九時から五時はここにいる。永遠に再発行できない気がする。
「寝るなよ、遥」
右耳のイヤカフから、低くて乾いた声がした。父さん——いや、父さんの人格を移したエージェント。生前と同じ癖で、咳払いの代わりに舌打ちが入る。
「寝てない。暇なだけ」
「暇なら分散SNSのモデレーション溜まってるぞ。今朝から四十七件」
「それ業務外でしょ」
「お前が登録したんだろ、観光区の非公式コミュニティ。苦情が来てる。海沿いのビーコンが臭いって」
「ビーコンに臭いはない」
「だから苦情だって言ってんだ」
私はため息をついて、カウンター横の触覚フィードバック端末を引き寄せた。平たい板状の旧式モデルで、指で触れると文字の輪郭がぷくりと浮き上がる。視覚を使わなくても読める建前だが、実際は目で見たほうが早い。でも夜間は照明を落とす規則があって、この端末だけが頼りになる。
指先にざらりとした通知の感触。分散SNSのモデレーション依頼——ではなく、内閣ユニットからの割り当て通知だった。
〈第0x7FA02内閣ユニット・内閣総理大臣に任命されました。任期:5分間〉
「……また?」
「三ヶ月ぶりだな」と父さんが言う。「前回はゴミ収集日の変更だったか」
端末の表面に政策変更リクエストの概要が浮かび上がる。指先で輪郭をなぞると、文字がぽこぽこと隆起する。
件名:第10観光区における外部来訪者向け紙媒体案内の廃止について。
要旨を読む。観光パンフレットの印刷・配布をやめ、デジタル配信に一本化する。併せて、案内所に残存するFAX機の撤去を求める内容。
私は振り返った。カウンターの奥、壁際に鎮座する灰色のFAX機。型番すら読めないほど古い。でも、動く。ときどき、どこからともなく送られてくる宿泊施設の手書き地図や、港の時刻表が紙の舌みたいにべろっと出てくる。
月に二、三人、夜遅くにふらりと来る旅行者がいる。端末の充電が切れた、とか、ネットワークに繋がらない、とか。そういう人に私はFAXで受信した紙の地図を渡す。ありがとう、と言われる。それだけだけど。
「党ドクトリンの署名、要るんだよな」
「形式上はな」と父さん。「でもアルゴリズム、今どき中学生でも——」
「わかってる」
承認すれば効率は上がる。非承認にする合理的な根拠は薄い。ドクトリンのアルゴリズム署名は通る。誰も困らない。たぶん。
触覚端末の「承認」ボタンに指を置いた。ぽこ、と膨らむ感触。
そのとき、FAX機がじーっと唸り始めた。
紙が一枚、ゆっくり吐き出される。
私は椅子を蹴って立ち上がり、まだ温かい紙を手に取った。港近くの民宿からの手書きの地図。「夜遅く着くお客さんへ。この道は暗いから気をつけて」と添え書き。インクが少し滲んでいる。
五分のうち、たぶん三分が過ぎた。
私は端末に戻り、「非承認」に指を滑らせた。ぽこ、と小さな隆起。押す。
「理由欄、空白だぞ」と父さんが言った。
私は少し考えて、指先で一文字ずつなぞるように入力した。
「紙は、温かいので」
任期が切れた通知が、端末の表面をさらりと撫でて消えた。
FAXの紙を三つ折りにして、カウンターの「ご自由にどうぞ」の棚に差した。磁気定期券を胸ポケットに戻す。
指先に、まだインクの温度が残っている気がした。