乾電池の海を渡る人へ
──平成0x29A年 日時不明
案内所の引き戸を開けると、カウンターの上に乾電池の山ができていた。
単三と単四が混ざって、プラスチックの籠から溢れ出し、パンフレット立ての隣に小さな稜線をつくっている。昨日の来訪者が置いていったものだ。「もう使わないから」と言って。何に使っていたのかは聞かなかった。聞いても仕方がない。ここに来る人は、だいたい何かを残して帰る。
あたしは上着をハンガーにかけ、カウンター奥のブラウン管モニタに電源を入れた。起動に十四秒かかる。その間にポットの湯を沸かし、インスタントの粉をカップに落とす。
モニタの隅に小さな通知。「時間貸しCPU残量:本日分は未配分。申請してください」。
——また止まってる。
「ねえ、おばあ。CPU申請って、紙で出せるんだっけ」
右の耳奥で、祖母の声が鳴った。野沢温子。享年六十八。脳裏に浮かぶのは、いつも台所で新聞を広げていた横顔。
『紙で出せるわよ。むしろ最近はそっちが早いって、あんた先週も言ってたでしょう』
言ったかもしれない。ここ数日、電子申請の承認が軒並み滞っている。どこかの内閣ユニットが処理落ちしたまま復帰しないせいで、観光案内所への時間貸しCPUの配分が宙に浮いたのだ。紙の申請書なら隣のブロック管理室に直接持ち込める。アナログの方が速い、という逆転が最近やたらと多い。
引き出しから複写式の用紙を引っ張り出し、ボールペンで記入した。住所欄は「第16文化ブロック観光案内所」。日付欄には——何を書けばいいのか、少し迷った。端末の時計表示は「日時同期中」のまま点滅している。記録欠損。珍しくはないけれど、案内所としては困る。
『空欄でいいのよ。受付印が日付の代わりになるから』
おばあは実務的だ。生きていたときもそうだった。旅館の帳場を四十年やっていた人だから、こういう勘が鋭い。
申請書をクリアファイルに挟んだとき、表の自動ドアがぎこちなく開いた。
立っていたのは中年の男性と、その足元をちょろちょろ動く直方体——物流用の群ロボットが三台。膝丈ほどの白い箱が、互いの距離を一定に保ちながら男の荷物を分担していた。
「すみません、ここ、観光案内所ですよね」
「はい。どちらへお越しですか」
「第16の、旧展望台跡。紙の地図ってありますか。端末が日時拾えなくて、ナビが動かないんです」
あたしはカウンター下の段ボール箱を探った。折り畳みの地図が出てくる。表紙に「散策マップ」とゴシック体で刷られている。裏面には広告——「着メロ取り放題 月額300円」と「ストリーミング音楽聴き放題」が同じ紙面に並んでいる。いつ刷ったのかわからない地図。でも道は変わっていない。この辺りの道は、たぶん何百年も変わっていない。
男は地図を受け取り、丁寧に広げた。群ロボットたちが地図の端をセンサーで読み取ろうとして、紙の折り目に反応できず小さく首を振るように震えた。
「ロボットくんたち、紙は苦手ですか」
「こいつら、デジタルの案内板しか読めないんですよ」男は苦笑した。「でも今日はどこもデータ欠損で。電池だけは大量に持ってきたんですけどね」
あたしは籠の乾電池の山を見た。
「よかったら補充していってください。前の方の置き土産が余ってますので」
男は目を丸くし、それからロボットの一台の背面パネルを開けた。単三が四本、きれいに収まった。ロボットの動きが少しだけ滑らかになった気がした。
『あんた、いい顔してるわよ』
おばあが耳の奥で笑う。
男が礼を言って出ていった後、あたしは乾電池の山を数えた。まだ二十本以上ある。次の誰かのために、籠をカウンターの端に寄せておく。
ブラウン管の時計はまだ点滅していた。日付は戻らない。でも案内所は開いている。紙の地図はある。乾電池もある。
それで足りる日も、ある。