磁性層の裏側、夜半のパッチ
──平成0x29A年03月04日 02:40
午前二時四十分。店舗裏の重い鉄扉の向こうから、冷気を含んだ風の音が漏れてくる。ここは第二十三衛生ブロック、ドラッグストア「セイフティ・ゾーン」のバックヤードだ。
「蓮、また弾かれたよ。その箱、認証キーが古すぎるんじゃないかい」
視界の端に浮かぶ祖母のエージェント・トヨが、渋い顔で在庫の山を指差した。彼女が生きていた頃は、薬の管理なんて紙と判子で済んでいたらしい。だが今は違う。手元にあるのは期限切れ間近の「ナノ医療パッチ」の束だ。皮膚に貼ればナノマシンが血中に潜り込み、指定された疾患を修復する優れものだが、廃棄処理一つするにも「党ドクトリン」に基づく暗号署名が要る。
俺はため息をつきながら、携帯端末のエラー画面をタップした。署名のハッシュ値が合わない。どうやら中央の内閣ユニットが並行処理している承認アルゴリズムと、この店舗に残るレガシーな在庫管理システムの間に、〇・〇〇一秒ほどのタイムラグが生じているようだ。この「平成エミュレーション」特有のわざとらしい遅延処理が、時々こうして牙をむく。
「仕方ない、物理で通すか」
俺はスチール棚の奥、埃を被ったプラスチックケースから一枚のフロッピーディスクを取り出した。ラベルには手書きで『緊急回避用・改』とある。公式には存在しないことになっているが、現場では黙認されている署名偽装用のドングルだ。
専用の外付けドライブを端末に繋ぎ、カシャッという乾いた音と共にディスクを押し込む。モーターが唸り、磁気ヘッドがデータを読み取る低い振動が指先に伝わる。デジタルなはずの処理に、泥臭い物理駆動が介在するこの瞬間が、俺は嫌いではなかった。
読み込みを待つ間、胸ポケットからテレホンカードを取り出し、指で弄ぶ。表面には煌びやかなアイドルの写真が印刷されているが、既に引退して久しい誰かだ。このカードは度数が残っている限り、古い公衆回線網へのアクセスキーとして機能する。使う当てはないが、この薄っぺらい磁気カードの感触が、なぜか落ち着くのだ。
その時、視界の中央に淡い菊の紋章がフラッシュした。
『遺伝子ネットワーク通知:皇室遺伝子配列の局所的揺らぎを検知。各位、静粛に』
深夜の静寂に割り込む、唐突なシステム通知。どこかのブロックで、高貴な遺伝子を持つ誰かが生まれたのか、あるいは逝ったのか。それとも単に、ネットワークの保守担当が誤ってスイッチを押しただけか。俺たちには知る由もないし、深く考えることも推奨されていない。
「……やれやれ、高貴な方々もお忙しいこって」
トヨが皮肉っぽく呟くのと同時に、フロッピーディスクのアクセスランプが消え、端末に『署名完了』の文字が躍った。不整合は強制的に均されたのだ。
俺はドライブからディスクを排出し、温まったシャッター部分を親指で撫でた。ナノ医療パッチの箱は無事に処理済みレーンへと流れていく。
通知は消え、バックヤードには再び冷蔵ケースのファンノイズだけが残った。俺はテレホンカードをポケットにしまい直すと、その硬質なエッジが肋骨に触れる感触を確かめながら、また次の箱へと手を伸ばした。