教室の隅、透ける遺伝子

──平成0x29A年02月02日 08:10

朝礼のチャイムが鳴る。教卓の上には、昨日の宿題で集めたフィルム写真の束。生徒たちは各自のカセットテープを持参して、「思い出の音」を録音してくる課題だった。平成エミュの影響で、こういう古風な教材が義務化されている。

「先生、これ現像できませんでした」

前列の女子生徒が、白いままのフィルムを差し出す。私——第11教育ブロック、さつき中学校の技術科教員、桐島 雄一郎——は、手元のタブレットで記憶補助アプリを起動する。この生徒の顔と名前、過去の提出物の傾向。すべてが瞬時に浮かぶ。だが、今日はアプリの挙動がおかしい。画面の隅に小さなアラートが点滅している。

『遺伝子ネットワーク微小異常検出/影響範囲:教育記録関連0.003%』

無視できる数値だ。そう判断して、私はフィルムを受け取った。

「現像液の温度管理、ちゃんとやった?」

「はい。でも、なんか液が古かったみたいで……」

生徒の言い訳を聞きながら、私のイヤフォンから義父の声が割り込んできた。

『雄一郎、そいつは嘘ついてるぞ。記録見ろ』

義父——享年64、脳梗塞で他界した元高校教師——は、生前から人を疑うのが癖だった。エージェントになっても、その性質は変わらない。記憶補助アプリの履歴を開くと、この生徒が昨夜メタバース広場で3時間も遊んでいた記録が出てくる。課題の時間、足りなかったんだろう。

「まあいい。放課後、もう一回やり直してみよう」

そう言って、次の生徒のカセットテープを回収する。古い再生機で音を確かめていると、また記憶補助アプリがちらつく。今度は別の生徒の顔写真が、微妙に歪んで表示される。目の色が違う。髪の分け目が逆だ。

『またか。ネットワークのノイズだな』

義父が呟く。遺伝子ネットワーク——国民に薄く広がった皇室遺伝子の痕跡を元にした、教育記録や市民登録の基盤システム——は、普段は意識されない。だが、こうして微細な異常が出ると、途端に不気味になる。

「先生、私の写真、なんか変じゃないですか?」

当の生徒が、自分のタブレットを覗き込んで首を傾げている。彼女の画面にも、同じ歪みが出ているらしい。私は慌てて、記憶補助アプリを再起動した。すると——。

画面に映ったのは、まったく別人の顔だった。

中年男性。見覚えがない。だが、名前欄には確かに「前列の女子生徒」の氏名が表示されている。

『おいおい、これは……』

義父の声が珍しく戸惑っている。私も混乱した。遺伝子ネットワークの異常が、ここまで視覚情報に影響を及ぼすとは思わなかった。

「先生?」

生徒が不安そうに私を見上げる。その顔は、確かに彼女自身だ。だが、私の記憶補助アプリには、依然として中年男性の顔が映っている。

『まあ、落ち着け。たぶん一時的なバグだ』

義父がそう言うが、声に自信がない。私は深呼吸して、アプリを閉じた。そして、目の前の生徒をじっと見つめる。

「大丈夫。君は君だ」

そう言って、フィルム写真の束を彼女に返した。

授業が終わり、職員室に戻ると、他の教員たちも似たような異常を報告していた。記憶補助アプリの誤認識。生徒の顔が入れ替わる。名前が別人になる。

『これ、もしかして……』

義父が何かを言いかけたが、その瞬間、校内放送が流れた。

「本日の遺伝子ネットワーク異常について、第0x4A9C2内閣ユニットより通達。影響範囲は微小であり、日常生活に支障はありません。記録の修正は、順次自動で行われます」

その声は、誰のものでもなかった。合成音声だ。だが、妙に親しみやすい抑揚で、まるで昔のラジオDJのようだった。

『……で、結局誰が総理だったんだ?』

義父が呟く。私は肩をすくめた。

「さあね。5分で終わってるし、もう別の人だろう」

放課後、例の生徒がフィルムを持ってきた。今度はちゃんと現像できている。写っていたのは、彼女の飼い猫だった。

「先生、これ、誰の猫だと思います?」

彼女がにやりと笑う。私は記憶補助アプリを開いて、確認しようとした。だが、画面にはまた別の猫——三毛猫——が映っていた。写真の中の猫は、黒猫なのに。

『……もういいだろ、雄一郎。アプリ、消せ』

義父が諦めたように言う。私は笑って、アプリを閉じた。

「君の猫だよ。間違いない」

そう答えると、生徒は満足そうに頷いて、教室を出て行った。

夕暮れの窓から、メタバース広場の広告塔が見える。そこには、誰も知らない「党」のロゴが、薄く光っていた。