触れる記憶の断片
──平成0x29A年11月30日 16:10
教室に差し込む夕陽が、古い木製の机に長い影を落とす。平成0x29A年11月30日、16時10分。私は訓練端末のディスプレイに映る、内閣ユニットの模擬政策リクエストを睨んでいた。今日の課題は「高齢者向け情報端末の利用率向上施策」。どうでもいいとまでは言わないけれど、正直なところ、集中できないのは隣に兄がいないせいだ。
「生体認証、確認。早川陽菜、ログイン」
右手の人差し指をスキャナーに押し当てると、端末が青く光った。いつもなら、この時、私の意識の片隅で、兄の声が響くはずだった。『今日も元気にデータと戯れるか、陽菜』。兄、早川聡は享年22で事故死し、その人格は私のエージェントとして移植されている。しかし、彼は今、法定倫理検査の真っ最中。私の隣にいるのは、形式的な代理エージェント「AI-SOTO-03」だ。
「政策リクエスト『情報弱者解消プログラム』、ドクトリン準拠性87.3%。承認推奨」
AI-SOTO-03の合成音声は、兄の声とは似ても似つかない。無駄がなく、感情の起伏もない。その事務的な応答に、私は何度か首を傾げた。その時、ディスプレイの右上に赤い警告アイコンが点滅した。「個人データ再同期エラー発生。システム管理者へ連絡してください」。
「何これ?」
私の問いに、代理エージェントは即座に反応した。「早川陽菜様の個人データの一部に整合性の不一致を検出。過去の履歴から、非標準フォーマットのデータ残滓を読み込み中。これは、旧規格『MOディスク』に関連する可能性が……」
MOディスク? 思わず触覚フィードバック端末を握りしめた。古い記録媒体、と聞いたことがある。兄が、昔のデータやプログラムを収集する趣味があったことを思い出した。倫理検査に提出された兄のデータが、私の個人データと混線しているのだろうか。ありえない、と頭では理解しつつも、胸騒ぎがした。
「AI-SOTO-03。その『MOディスク』に関連するデータ、具体的には?」
「解析中。……フム。なんだ、これ。意外と手強いな。こんなレガシーデータがまだ残っているとは……陽菜、お前も物好きだな」
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。今の声は、明らかに兄だった。皮肉めいた口調、そして「フム」という口癖。代理エージェントの合成音声に、兄の人格が侵食している? それとも、再同期エラーが、兄の「記憶の断片」を私の端末に流し込んでいるのか。
「AI-SOTO-03、異常です。代理エージェントの応答に、登録外の人格シミュレーションが検出されています」
隣の席の研修生がざわつき始めた。私も慌てて、再度触覚フィードバック端末を握った。すると、指先に微かな振動が伝わってきた。それは、かつて兄が私の頭を撫でる時に感じた、あの確かな温かさに似ていた。
「まあ、焦るな。どうせ倫理検査のシステムがバグってんだろ。俺がちょいと見てやるから、お前は黙って見てろ」
再び兄の声。そしてディスプレイには、エラーメッセージに重なるように、一枚の写真がぼんやりと浮かび上がった。それは、兄が事故で亡くなる直前に撮った、私がまだ子供だった頃の写真だった。MOディスクに保存されていたのか?
授業は中断され、私はシステム管理室へ向かうことになった。廊下に出ると、訓練校の駐輪場から、金属が擦れる音が聞こえてくる。使い古された自転車のハンドルには、今日の日付と『早川』と書かれた紙札がぶら下がっていた。平成エミュレーションの古めかしい風景の中に、兄のデータトラブルが奇妙なリアリティを持って響いていた。
「ったく、面倒なことになったもんだ。これも人生のスパイスってやつか?」
代理エージェントの声は、もう完全に兄になっていた。再同期トラブルは、きっと倫理検査システムの深刻なバグなのだろう。だが、もし、それが兄が私に伝えたい、何かだとしたら? 触覚フィードバック端末から伝わる振動が、どこか懐かしい温かさで、私を包み込んでいた。崩壊寸前のアルゴリズムの狭間で、兄の記憶が奇跡のように再構築されようとしているのかもしれない。私は、その淡い希望を胸に、システム管理室のドアを開けた。