給湯室の温度計
──平成0x29A年 日時不明
給湯室で白い湯気が立ち上っている。九時十五分。
僕は勤め先の第0x47A2内閣ユニット統計部で、毎日この時間に紅茶を淹れる。習慣というより、もう儀式だ。古いティーポットは二十年以上前のもので、蓋が少しずれている。
「今日も冷え込んでるね」
頭の中で母の声がする。ポケベルに母・河村美智代の人格エージェントを運用中だ。母は生前、看護師として病院の栄養管理をしていた。温度計を見ることが癖だった。
「気のせいじゃない。温度計が、おかしい」
僕は給湯室の壁に掛かった古いアナログ温度計に目をやった。二十二度を示している。だが、沸騰して湯気が立っているのに。
ポケベルの画面をタップすると、母のエージェントが補足情報を送ってくる。ただし今日は「倫理検査期間中」で、代理エージェント三号が補佐している。本物の母の声ではなく、アルゴリズムが生成した近似値だ。
「統計部の温度管理システムが、複数ユニット間で齟齬を起こしているという報告があったはずだ」
代理エージェント三号の冷淡な文字列が流れる。本物の母なら、もっと温かい口調で言うだろう。
職場に戻ると、同僚の佐藤が机を叩いていた。
「河村、お前の担当ユニットの政策レビュー結果が来た。でおかしいんだ」
画面を覗き込むと、複数の閣議決定ログが並んでいた。同じ時刻に、異なるユニットから同一の政策変更リクエストに対して、真逆の承認結果が出ている。一つは「承認」、もう一つは「非承認」。ドクトリンアルゴリズムの署名はどちらも正当だという。
「これ、起こり得ないはずだぞ」
佐藤の顔が青い。彼も誰かのエージェント—おそらく父親か兄だろう—を運用しているはずだが、今日は代理エージェントに切り替わっているのかもしれない。
ポケベルが振動した。代理エージェント三号からのメッセージだ。
「これは報告すべき事象である。統計部長に上げろ」
だが、その直後、別のポケベルからの通知が重なる。他のユニットからの内部通達だ。内容は明確だった:
「本日より、複数ユニット間の政策署名ズレに関する報告は保留とする。党ドクトリン適合性の再検証中」
つまり、報告するな、ということだ。
僕は給湯室に戻った。ティーポットの湯気はまだ立っていた。温度計は相変わらず二十二度を指している。
ポケベルをもう一度見た。代理エージェント三号の文字列は消えていた。代わりに、母のエージェント本体からのメッセージが来ていた。倫理検査が終わったのだ。
「気温計じゃなくて、温度計を見ることが大事。見えているものが、本当に動いているのか、それとも止まっているのか。区別がつかなくなったら、もう終わりよ」
母は、生きていた頃もこんなことを言っていた。僕は紅茶をカップに注いだ。湯気が立ち上る。温度計は二十二度のままだ。
そして気づいた。温度計の針が、実は少し前から動いていない。完全に止まっているのだ。