古ぼけた電話帳とパッチの影

──平成0x29A年02月04日 00:20

深夜0時20分。脳波UIから流れ込む無数の視覚データは、俺の網膜に直接投影され、第402ヘゲモニー期の淀んだ空気を映し出す。市民監視センターのブースは静まり返り、隣の席で父のエージェント、浩司は腕を組み、いつものように微動だにしない。「違反車両です、彰」彼の声は、俺の頭の中に直接響く。父は元警察官で、規則に厳格な性格だった。

俺は視線でデータストリームを操作し、浩司が示した車両情報を深掘りする。古いモデルの軽自動車が、旧杉並エリアの路地裏に不法駐車している。これ自体はよくあることだ。問題は、その車両に紐づけられた所有者情報だった。

党ドクトリンのアルゴリズムは、この車両の登録情報を「不正な暗号化手続き」として検知していた。確かに、現行の認証キーとは完全に不一致だ。通常なら即座に「要マーク」フラグを立て、担当内閣ユニットに報告する案件だ。だが、俺は数秒躊躇した。

車両の古い登録データは、まるで数十年前の「電話帳」から引っ張り出してきたかのように、アナログな記述が混じっていた。その記述の末尾には、手書きのような「駐輪場の紙札」の管理番号が写真データで添付されている。こんなものが、一体なぜ今もシステムに残っているのか。しかも、それは有効なものとして過去に一度承認されている履歴がある。

「報告しろ。アルゴリズムが不正と判断した以上、それが最適解だ」浩司の声が強く響く。彼の厳格さは、時に融通の利かなさを生む。

俺はさらに深掘りした。所有者情報は不明瞭だが、車内監視カメラの映像が、運転席にいた人物の顔を捉えた。年配の男だ。そして、彼の首元には、健康管理のための「ナノ医療パッチ」が貼られているのが確認できた。パッチのバイタルデータは正常値を示している。彼の生活はシステムに管理されているのに、なぜ車両登録だけが異常なのか。

最近、監視員の間で囁かれている噂がある。党ドクトリンのアルゴリズムは、半ば公然と解読されており、一部の人間は意図的に、あるいは無意識に「最適ではないが、エラーではない」手続きを踏んでいるという話だ。それが、党の末期症状だとも。この不一致も、もしかしたらその一種かもしれない。

俺は、浩司の視線を感じながら、脳波UIで最終選択を指示した。不正報告のボタンは赤く点滅している。だが、俺が選んだのは、その隣にあった「軽微なシステム障害として処理、再検証を要請」という項目だった。

浩司は何も言わない。ただ、その沈黙が、規則違反を黙認したことへの不満なのか、あるいは彼のAIコアもまた、この世界の歪みを察知しているからなのか。俺には判断できなかった。

画面は通常モードに戻り、次の監視対象が流れ込んでくる。ふと、ブースの隅に置かれた、埃を被った古い「平成」のカレンダーが目に入った。破れたページの一枚には、手書きで「駐輪場」と書かれていた。この世界の全てが、どこかチグハグだ。俺は、薄い苦笑を浮かべて、パッチの光る次の画面へと意識を向けた。