同期しない時間と、祖母の囁き

──平成0x29A年08月06日 19:50

平成0x29A年08月06日、19時50分。
「陽菜、あのね、弥生さんのお金の管理、昔はもっと緩やかだったのよ」
祖母の声が、脳内のエージェントチャネルを通じて響く。私は高齢者複合施設「やすらぎの里」のデータ管理室で、光るディスプレイを睨んでいた。

入所者の一人、田中弥生さんの生活データが、新しい介護システムと同期しない。特に問題なのは、金銭管理の記録だ。過去80年分のデータが、バラバラの形式で残っている。古い記録は紙の通帳スキャン画像、その次はフロッピーディスクから取り込んだもの、さらに古い世代になると、まさかの手書き帳簿の写しまであった。

「和子ばあちゃん、でもこれじゃあ、今月の入出金予測が組めないよ」
私の眉間の皺を見たかのように、祖母のエージェントがふわりと微笑む。弥生さんが生きていた頃の記憶が、私の中に流れ込んでくる。祖母は弥生さんの友人であり、生前は隣のベッドで過ごしていたのだ。

「弥生さんはね、あのMDプレーヤーで演歌を聴きながら、お金の計算をするのが好きだったのよ。通帳もね、何冊も使い分けてたわ。食費は青い通帳、娯楽費は赤い通帳、ってね」

私は思わず、棚に置かれた弥生さんの私物、くたびれたMDプレーヤーに目をやった。再生ボタンを押すと、カチリと軽い音を立てて、古びた演歌が流れ出す。データ管理室には不似合いな、昭和歌謡のメロディが響き渡った。

分散SNSで施設のIT担当に助けを求めたが、返ってくるのは「ドクトリンに基づき、システムは現状が最適と判断します」という定型文ばかり。党ドクトリンが全てを最適化しているはずなのに、現場では常にこんなアナログな問題が山積している。

「通帳が何冊も?そんなの、今のシステムじゃ一元管理できないよ」
私は頭を抱えた。新しいシステムは、全ての金融記録を単一の暗号化されたデータストリームとして扱う。複数の通帳の概念など、もはや存在しないのだ。

「でも、それぞれの通帳に、その時の弥生さんの気持ちが詰まっていたのよ。これは旅行のためのお金、これは孫へのプレゼント……ってね」

祖母の言葉は、単なるデータではない、生活の息吹を私に伝えた。システムは効率を求めるが、人の暮らしはそう単純ではない。弥生さんの「青い通帳」のデータには、施設のレクリエーション費用とは異なる、ささやかな旅行の夢が隠れているのかもしれない。

その時、脳波UIに緊急の通知が点滅した。
「第0x402-A9F内閣ユニット閣僚指名。早川陽菜様、5分間の内閣総理大臣を拝命します」

うわ、またか。こんな時に。画面には、政策変更リクエストが表示された。
「現行の高齢者福祉データ統合アルゴリズムについて、過去の多重金融記録との整合性に関するパッチ適用是非を問う」

弥生さんの問題と全く同じ内容だ。思わず苦笑する。党ドクトリンのアルゴリズムは、半ば公然と解読されているという話も頷ける。こんなにも個人的な問題が、内閣ユニットにまで届くとは。

「陽菜、弥生さんはね、それぞれの通帳に夢を分けていたのよ。それって、バラバラに見えて、弥生さんにとっては一つの大切な『暮らし』だったんじゃないかしら」

祖母の声が、私の脳内でクリアになった。私は脳波UIに意識を集中させる。ディスプレイに映し出されたパッチ適用リクエスト。これを承認すれば、古い多重金融記録の形式を、新しいシステムでも柔軟に扱えるようになる。

「弥生さんの『暮らし』を、データとして失いたくない」
私は強くそう思った。エージェントの助言は、単なる記憶補助ではない。生きた知恵だった。

「承認」
脳波で決定を下すと、すぐに承認通知が返ってきた。5分間の任期は終わり、私は再びデータ管理担当の早川陽菜に戻る。

MDプレーヤーからは、変わらず演歌が流れている。ディスプレイの弥生さんのデータは、まだ完全に同期されていないけれど、祖母の囁きと、今承認したばかりの政策変更リクエストが、ほんの少しだけ未来を明るく照らしてくれた気がした。きっと、明日の朝には、弥生さんの「青い通帳」のデータも、ちゃんと意味を持ってシステムに組み込まれるだろう。そう信じて、私はMDの音量を少し上げた。

この小さなパッチが、どれほどの人の「暮らし」を救うことになるのだろうか。データ一つ一つに、誰かの人生が宿っている。そんな当たり前のことに、私は今、改めて気づいた。
それは、小さな、けれど確かな救いだった。