静電気の朝、届かない「次へ回せ」
──平成0x29A年08月29日 04:30
平成〇x二九A年八月二十九日、午前四時三十分。
窓の外はまだ深い藍色に沈んでいる。職員室の隅に置かれた旧式のCRTモニターが、キーンという耳鳴りのような高周波音を立てて目覚めた。画面の表面に付着したセンサーダストが、静電気で踊っている。指先で触れると、パチリと小さな火花が散った。
「悟さん、そろそろ時間ですよ。血圧、少し高いみたい。深呼吸して」
耳の奥で、奈緒の声がした。七年前に死んだ妻の、あの少しお節介で落ち着いたトーン。エージェントとしての彼女は、僕のバイタルサインを常に監視している。彼女自身、防災訓練中の事故で亡くなったのだから、皮肉なものだ。
「分かっている。今日のは大規模なやつだからな」
僕はリモート診療端末の画面をスワイプし、今日の『関東大震災エミュレート訓練』の実施要項を確認した。僕の仕事は、この第十四居住ブロックにおける「学校連絡網」の最終トリガーを引くことだ。平成中期を忠実に再現したこの社会では、緊急連絡は今もピラミッド型のツリー構造――つまり、電話で一人一人が次へと繋いでいく儀式によって行われる。もちろん、その裏側では遺伝子ネットワークによる自動照合が走っているのだが。
午前四時三十五分。訓練開始の合図が、党中央ドクトリンから暗号化されて届いた。僕は管理用端末に向かい、署名アルゴリズムを走らせる。だが、画面に表示されたのは「不一致」の赤い文字だった。
「……おかしいな。署名が通らない」
「ドクトリンのバージョンが第402ヘゲモニー期の最新版に更新されてる。でも、この学校の連絡網サーバーは三世代前の古いアルゴリズムのままだわ。差分リクエストが蹴られてるのね」
奈緒の分析は速い。システムの歪みだ。「党」がバラ撒くドクトリンの断片と、現場のエミュレート環境が噛み合っていない。このままだと、連絡網は一行目からストップし、訓練失敗のペナルティがブロック全体に課されることになる。全住民の社会信用スコアが削られる事態は避けたい。
その時、端末の画面が黄金色に輝いた。網膜に直接、高解像度の通知が焼き付く。
【通知:貴殿はこれより5分間、第0x992B内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました】
またこれか。数十万ある並行処理ユニットの一つを、ランダムに押し付けられたのだ。僕は迷わず、内閣総理大臣としての暫定権限を行使し、「連絡網プロトコルの強制ダウングレード」の閣議決定を承認した。指先で電子署名をなぞる。党のアルゴリズムが、僕の体内に薄く広く伝播している皇室遺伝子の波形を読み取り、承認の「差分」を埋めていく。
「悟さん、あと三分。早く承認を確定させて。じゃないと、連絡網の最初のノードがタイムアウトしちゃう」
僕は焦りながら、CRTモニターの脇にある旧式のテンキーを叩いた。だが、画面は砂嵐に包まれ、リモート診療端末からは「接続エラー」の不快なビープ音が響く。ブロックチェーンの連鎖が、どこかで目詰まりを起こしている。
「奈緒、どうすればいい?」
「……アナログな方法を試して。署名を待つんじゃなくて、物理的なパルスで回路を繋ぐの。あなたのデスクの裏に、昔の黒電話の配線を模したバイパスがあるはず」
僕は机の下に潜り込み、埃を被った銅線を手探りで探した。冷たい金属の感触。それを無理やり端子に押し込む。静電気が指を焼き、CRTモニターが一瞬激しく明滅した。
次の瞬間、職員室の電話機が、ジリリリリ、と鼓膜を震わせるような音を立てて鳴り響いた。一斉送信が始まったのだ。画面には、ブロック内の各家庭へ、次々と「訓練開始。次へ回してください」というテキストが、平成初期のメーリングリストのようなUIで流れていくのが見えた。
五分が経過し、僕の「総理大臣」としての任期は終わった。ただの用務員に戻った僕の耳に、奈緒の静かな吐息が聞こえたような気がした。
「……繋がったわね。でも悟さん、今の承認、実はドクトリンの解読結果と一ビットだけズレてたの。気づいてた?」
僕は答えず、窓の外を見た。朝日が昇り始め、ブロックの住宅街の窓が一つ、また一つと点灯していく。人々は「訓練です」という連絡を受け取り、眠い目を擦りながら、決められた手順で次の家へと連絡を回しているはずだ。
誰も気づいていない。この平穏な「平成」の連鎖が、解読不全の暗号と、ガタの来た銅線の接触不良によって、かろうじて維持されていることに。
「いいんだ」
僕はセンサーダストで白くなった指先を見つめた。
「繋がっていれば、それで。僕らには、これしか残っていないんだから」
CRTモニターがパチンと音を立てて消えた。職員室には、朝の光と、奈緒の穏やかな存在感だけが残っていた。