CRTの輝き、代理の迷訳
──平成0x29A年 日時不明
第7福祉ブロックにある「やすらぎの里」の事務室は、いつも古い匂いがした。消毒液と、何年も前の紙の記録が混じったような。私のデスクには、いまだ現役のCRTモニターが鎮座している。その分厚い画面には、平成初期のゲームセンターを思わせるドット絵のUIで、入居者のケアプランが表示されていた。
「佐倉さん、田中フミさんの散歩時間延長リクエストですね。カーボンクレジット台帳との連携で、最適な活動プランを提案します」
私の耳元のイヤホンから、代理エージェント〈アルファ・ゼロ〉の声が響く。祖父の賢治エージェントは、今、法定倫理検査の真っ最中だ。彼の、あの少し掠れた、それでいて穏やかな声が恋しい。アルファ・ゼロは党ドクトリンに忠実で、データ処理は正確だが、どこか味気ない。
「いや、アルファ・ゼロ。フミさんは最近、もう少し外の空気を吸いたがってるんだ。散歩のコースを増やしてほしいって」
フミさんは90代に入ったばかりだが、とてもお元気だ。先週も、自律型バスに乗って昔よく通ったという商店街まで行ってきたばかりで、その時のお土産だ、と古い柄のハンカチをくれた。その領収書は、なぜか手書きだった。私はそれをファイリングしつつ、モニターの「政策変更リクエスト」タブを開く。
「理解しました。しかし、現在の季節において、フミさんの活動エネルギー消費と、それによって発生する微細な二酸化炭素排出量は、当ブロックの年間カーボンクレジット台帳の最適化プロトコルに照らすと、既存のプランが最も効率的であると判断されます」
アルファ・ゼロの機械的な声は、フミさんの切実な願いを完全に無視している。散歩が二酸化炭素排出量? 私が申請したいのは、単に「施設周辺の散歩コースを一つ増やす」だけだ。それも、人が歩くだけの話なのに。
「だから、効率とかそういう話じゃないんだ。フミさんの生活の質が——」
「生活の質(QOL)向上に関する党ドクトリン第47条『個人最適化原則』に基づき、現行プランが最適なQOLを保障していると判断。これ以上の変更は、第302条『全体最適化原則』に抵触する可能性があります」
CRTモニターの画面がチカチカと瞬く。アルファ・ゼロは、私が差し込んだ変更リクエストの差分断片を、党ドクトリンに基づいて徹底的に「誤訳」し、拒否している。これは賢治じいちゃんだったら、きっと「お前さん、そういう理屈じゃねぇんだよ」って、笑ってくれただろうに。
夕方、フミさんが楽しみにしている施設周辺の散歩の時間になった。自律型バスの到着はまだ先だ。アルファ・ゼロの「最適化」指示を無視して、私はフミさんの車椅子を押して施設を出た。秋の澄んだ空気が心地よい。フミさんは目尻に皺を寄せ、嬉しそうに深呼吸した。
「遥斗さん、この道、懐かしいわねぇ。昔、よく子どもたちと歩いたのよ」
フミさんの指差す先には、古びた公園のブランコが見える。私は、このささやかな「誤訳」が、党ドクトリンのどんな完璧な決定よりも、ずっと価値があるような気がした。
事務室に戻ると、CRTモニターは相変わらずチカチカと点滅していた。アルファ・ゼロからは、私が承認しなかった「ケアプラン最適化」の通知が何件も届いている。それでも、私の心は少し軽かった。システムは完璧じゃない。もしかしたら、その不完全さの隙間に、本当の優しさや喜びを見つけることができるのかもしれない。そう思ったら、少しだけ、明日が楽しみになった。