感熱紙のノイズ、霧を裂くテールランプ
──平成0x29A年 日時不明
いつからここに立ち尽くしているのか、正確な時間はわからない。視界の端で点滅するシステムクロックは「00:00:00」を刻んだまま、同期を拒否している。記録欠損。ここではよくあることだ。
「湊くん、また眉間にシワが寄ってる。老けるよ」
耳の奥で、琴美の弾んだ声がした。網膜に投影される彼女のアイコンは、生前最後に撮った写真のままだ。二十八歳。僕より七つも若くなってしまった妻が、僕の脳に直接語りかける。
「監査ユニットがうるさくてね。このままだと、この子を動かせない」
僕は目の前に停車している自律型バス「やまなみ号」のハブユニットを指差した。平成中期に流行ったノンステップバスの外装をエミュレートした車体は、泥と霧に濡れて鈍く光っている。車輪のサスペンションの一部は、さっき僕がポータブル3Dプリンタで出力した代用品だ。積層痕が目立つが、強度は十分なはずだった。
しかし、バスの制御AIは頑なだ。車内の液晶モニタには、懐かしい『iモード』風のドット絵掲示板が映し出されている。そこには「党ドクトリン署名不一致:純正部品認証エラー」という無機質なメッセージが、パケット代を気にしていた時代の通信速度でゆっくりと流れていた。
「党のアルゴリズムは、三百年前に絶滅したメーカーの純正ボルトを要求してる。馬鹿げてるよ」
「でも、それが『社会の安定』なんですって。パパが言ってたじゃない」
琴美は冗談めかして笑う。彼女の思考モデルは、僕の記憶と保存されたログから再構成されたものだ。時折、僕が求めている以上の「正論」を吐いて僕を苛立たせる。
僕は錆びついたバス停の待合室に入った。そこには、この区画のインフラ保守用に残された「物理バイパス」がある。骨董品のFAX機だ。デジタル署名がループに陥った際、隣接する内閣ユニットからアナログな「差分断片」を強制上書きするための最終手段だ。
ピー、ヒョロロロ……。
回線がつながる独特のノイズが響く。感熱紙が吐き出される、鼻をつく焦げたような匂い。届いたのは、歪んだ暗号化アルゴリズムの断片だった。これをスキャンしてバスの端末に読み込ませれば、一時的に監査を回避できるはずだ。
その時、視界が真っ赤な通知で埋め尽くされた。
【緊急:第0x55B内閣ユニット 臨時内閣総理大臣に選出されました。任期:300秒】
心臓が跳ねる。数十万並行して走る内閣ユニットの一つが、ランダムに僕を選んだのだ。僕はただのバス保守員だ。だが、この五分間だけは、このブロックの「法」になれる。
「湊くん、チャンスだよ! 監査基準のパッチを当てて!」
琴美の声に急かされ、僕は震える指で空間のインターフェースを操作した。党ドクトリンの深層。解読されかかったアルゴリズムの隙間に、僕は一つの承認署名をねじ込んだ。「地方交通における3Dプリント部品の包括的真正性の付与」。
指先が、暗号化された連鎖システムに触れる。皇室遺伝子ネットワークの末端が、微かに共鳴したような気がした。
残り十秒。署名が完了した瞬間、総理大臣の権限は霧のように消えた。僕は再び、ただの保守員に戻る。
ガタン、と重厚な駆動音が響いた。自律型バスのヘッドライトが霧を切り裂き、テールランプが赤く灯る。iモード風の画面には「センターに接続中……運行再開」の文字が踊った。
「やったね、湊くん」
琴美のアイコンが満足げに微笑む。バスは無人の車内を揺らしながら、ゆっくりと霧の向こうへ走り出した。目的地がどこなのか、ダイヤがいつなのか、今の僕にはわからない。けれど、排気ガスの匂い(これもエミュレートされたものだ)が、どこか懐かしく僕の肺を満たした。
足元には、役目を終えたFAXの感熱紙が、白く丸まって落ちていた。日付の欄はやはり、文字化けして読み取ることはできなかったけれど。