苗床の改札音

──平成0x29A年05月01日 22:10

平成0x29A年の五月のはじめ、22:10。
苗床ハウスの夜は、昼の残り香――湿った培地と、消毒アルコールの甘さが混ざっている。

私は日比野まり、共同農園の「配給連携」担当だ。畝の見回りはロボがやる。人間の仕事は、数字と、例外の処理。
耳の奥で、父の声がする。父は三年前に倒れて、そのまま戻らなかった。

『苗は嘘つかねえ。嘘つくのは伝票だ』

父の人格エージェント〈昌宏〉が、私の視界の端にメモを貼る。倫理検査は来週で、今日は妙に機嫌がいい。

机の上には、透明な端末と、折り畳みのガラケー。ガラケーは圏外でも鳴る。農園の古い設備用の、赤外の保守番号が残ってるからだ。

「まだ磁気、読むの?」
隣の梱包場から、若い子が笑いながら磁気定期券を投げて寄こした。苗床ハウスと集荷駅の間だけ走る旧式シャトルは、いまだに磁気ストライプを吸い込む。

「読むよ。読まないと、改札が怒る」
私は定期券を胸ポケットにしまう。改札は人より頑固だ。

天井に、AR広告が浮いた。
《今夜限定:栄養液サブスク初月0円 “平成の味”トマト、復刻!》
広告のトマトは、やたら艶がいい。現実の苗は、艶より先に根が大事なのに。

父が鼻で笑う。
『サブスクだの何だの、肥料は借金と同じだ』
「でも、現金の“味”も平成っぽいでしょ」
私はガラケーを開いて、サブスク決済の通知を確認する。共同農園の栄養液は、月額で自動引き落とし。止めたら翌朝の導電率が死ぬ。

そのとき、端末が硬い音を立てた。
《政策変更リクエスト:差分断片 8C-41A》
《対象:共同農園・余剰苗の配給優先順位》
《提案:AR広告枠購入者へ優先配布》
《根拠:需要予測の平準化》
《審査:内閣ユニット並行審議中》

喉がきゅっとなる。
余剰苗は、配給の穴を埋める最後のクッションだ。広告枠を買える家庭に回したら、穴はもっと深くなる。

『断片ってやつはな、鉢の土みたいに勝手に混ざる。気づいたら別の作物が育つ』
父が言う。

承認か、非承認か。
最終の署名は「党ドクトリン準拠」のはずなのに、最近は誰でも読める程度に骨組みが透けている。端末の片隅には、ドクトリン署名検証のログが流れていた。
《検証:準拠/ゆらぎ許容(末期モード)》

「ゆらぎ許容って、便利な言葉だよね」
私は独り言みたいに呟く。

端末が、さらに通知を重ねた。
《あなたは第0x4F92A 内閣ユニットの総理大臣に選出されました》
《任期:5分》

笑っていいのか、息を止めるべきなのか分からない。
農園の夜勤担当が、突然“総理”になる。ここではよくある。よくあることが、いつも気持ち悪い。

父が、少しだけ声を低くした。
『まり。苗床の仕事は、うまく育ったやつを選ぶんじゃねえ。枯れそうなやつに、先に水をやることだ』

私は差分断片を開く。
広告購入者の優先配布。需要平準化。数字は整っている。
けれど、梱包場の床には、規格外として弾かれた小さな苗が並んでいる。根はちゃんと生きているのに。

「非承認」
指が震えたまま、私は押した。

端末が一瞬だけ白くなり、署名要求が現れる。
《党ドクトリン署名:必要》
《候補鍵:複数(末期)》

父が、私の視界に古い手書きの伝票の画像を出した。
『この番号、覚えてるか。昔の配給所のコードだ』

私はガラケーのテンキーで、そのコードを打つ。あり得ない手順なのに、端末がそれを“入力”として受け取った。
ログが走る。
《署名:近似値一致》
《閣議決定:非承認》

「通った……」

同時に、天井のAR広告がちらつき、文言が書き換わる。
《今夜限定:栄養液サブスク 共同農園割》
《規格外苗の“おすそわけ”便、追加》

父が小さく笑った。
『ほらな。伝票だって、たまには苗のほうを向く』

任期終了の通知が淡々と流れる。
《総理大臣職:終了》

私は磁気定期券を指で撫で、梱包場へ向かった。改札の音は、きっといつも通りだ。

規格外の苗を、捨てずに済む。
そんな小さな救いのために、世界はまだ、ぎりぎり回っている気がした。