遺された紙の重さ

──平成0x29A年09月26日 05:50

夜明け前の空気は、金属とオイルの匂いがした。
ベルトコンベアが運んでくるガラクタの山を、俺は仕分ける。目の前の空中ディスプレイには、処理すべきアイテムのリストが絶えず流れていた。

『対象:ID77B-09。所有者デジタルツインとの照合を開始します』

耳元のインカムから、妻の声がする。
「健介さん、これは古いパーソナルAIスピーカーね。ツイン内の最終会話ログと一致。思い出データは保護して、本体は溶解ラインへ」
「了解」
俺はスピーカーを掴み、指定されたシュートへ放り込んだ。

ここは第7循環ブロック。あらゆるモノの終着駅だ。
俺の仕事は、廃棄された遺品から、持ち主のデジタルツインに残された遺言に基づき、保護すべきデータを抜き出すこと。残りは溶かされ、次の何かに生まれ変わる。

最近、「アナログ復権」とかいう面倒な流行のせいで、古い物理メディアの持ち込みが急増していた。党のドクトリンも、この手の文化回帰には寛容らしい。おかげで現場は混乱している。

「次、なんだこれ」
コンベアの上を、ベージュ色のプラスチック塊が流れてきた。受話器とダイヤルボタン…いや、プッシュボタンが付いている。

「FAX機よ。平成初期の通信機器。ツイン情報によると、所有者は一週間前に老衰で凍結されてる」
美咲が冷静に解説する。彼女は生前、図書館の司書だった。こういう分類作業は得意分野だ。

俺はFAX機を手に取り、軽く振ってみる。カラカラと乾いた音がした。
規定では、こういう旧式機器はデータ汚染のリスクがあるため、非破壊スキャン後に即時溶解だ。
だが、何かが引っかかった。
給紙トレイの奥に、何か紙のようなものが見える。

「美咲、ちょっと待ってくれ」
俺は作業台のライトの下で、ピンセットを使って慎重にそれを取り出した。
一冊の、薄緑色の冊子。表紙には「普通預金通帳」と印刷されている。

「通帳…?」
美咲の声に、わずかな戸惑いが混じる。
「健介さん、この人のデジタルツインに、この銀行の口座データは存在しないわ。完全にペーパーアセットね」

俺はページをめくった。そこには、インクで印字された数字の列と、手書きのメモがびっしりと並んでいた。
最後の記帳は、持ち主のツインが凍結される二日前。
システムの空白期間に、この老人は確かに生きて、何かを書き留めていた。

「どうするの?規定だと、未登録の物理重要資産は中央記録保管庫に報告後、原本は溶解処分よ」
「報告…か」
報告しようにも、今のシステムは物理媒体の直接申請を受け付けない。すべてはデジタルツイン経由のはずだった。アナログ復権なんて言ったって、制度が追いついていない。

俺はあたりを見回した。廃棄ラインの隅に、他の作業員がレストアして遊んでいる旧式機材のコーナーがある。
そこに、さっきのと同じ型のFAX機があった。

「健介さん、まさか…」
「やってみる」

俺は通帳の最終ページを開き、レストア品のFAX機に乗せた。
電源を入れると、低いモーター音が唸りを上げる。
空中ディスプレイが、俺の網膜に警告を投影した。

[警告:未承認の物理媒体による通信はプロトコル違反です。第402ヘゲモニー期ドクトリン ver.4.72b に抵触します]

知るか。
俺は中央記録保管庫のアナログ受付番号を打ち込み、送信ボタンを押した。

ガーッ、ガガガッ、という耳障りなノイズ。
白い紙がゆっくりと吸い込まれていく。
印字された数字と、手書きの文字が、光でスキャンされ、電気信号に変わり、どこか遠くの場所へ送られていく。

ピー、という短い電子音が、送信完了を告げた。

その瞬間、空中ディスプレイに新しい通知が割り込んできた。

『第0x88A12内閣ユニットより通達:アナログ記録媒体の暫定受理プロトコル、本日付で承認。担当者裁量での処理を許可する』

「…え?」
美咲が素っ頓狂な声を上げた。
ほんの数分前、どこかの誰かが5分間だけ総理大臣になって、このクソ面倒な手続きを承認したらしい。

俺は送信されたコピーのことなど忘れ、手元に残った通帳を指でなぞった。
紙のざらついた感触。インクが掠れた文字の凹凸。
それは、俺の網膜に映るどんなデータよりも、ずっと重く、確かな気がした。