23時10分の回覧
──平成0x29A年08月07日 23:10
平成0x29A年08月07日、23:10。
団地の廊下は、昼の熱をまだ握ったまま、ぬるい。エレベーターの前に立つと、壁の掲示板が自動で点灯し、薄い広告が浮かぶ。私はそれを指で払って、郵便受けから紙の回覧板を引き抜いた。表紙だけは本物の紙で、中身はeペーパー端末が挟まっている。平成っぽい見た目に、平成っぽくない中身。
「遅い時間に回すなよ」
耳の奥で、母の声がした。
——母のエージェントは、いま倫理検査中だ。代わりに付いている代理は、知らない男の落ち着いた口調で、必要最低限だけを言う。
『回覧の優先度:中。差分断片が添付されています』
部屋に戻り、ちゃぶ台にeペーパーを置く。私は古いポケベルを引き出しから出した。シールで「防災」と書かれたやつ。普段は飾りみたいなものなのに、たまに本気で鳴る。
さっきから机の隅で、充電器のランプが赤と緑の間をうろうろしている。充電式NiMHの単三、四本。団地の停電が増えてから、乾電池は配給の枠を食う。だから私は、わざわざNiMHを生かしている。
eペーパーをタップすると、回覧の本文が「回覧板/自治会/臨時」と、妙に平成のフォントで出た。
《政策変更リクエスト:共用部照明の点灯時間を23:30→01:00に延長》
《理由:防犯/見守り》
《付帯:カーボンクレジット台帳への影響試算》
試算の欄に、台帳の抜粋が細い字で流れる。電力の増分、ブロック内の相殺枠、誰が不足分を買うか。自治会の会計が、台帳に直結している。延長すれば、うちの棟の残高が削れる。
『承認か非承認か、投票を入力してください』とeペーパーが淡々と言う。
「自治会の投票が、政策変更リクエスト扱いって……」
私は声に出してから、口を閉じた。言い方を変えれば、ただの照明の話だ。
代理エージェントが、無味に補足する。
『差分断片は内閣ユニットに送られ、閣議レビュー対象になります。署名検証は自動です』
自動、ね。
廊下の照明は、いまも23:10なのに、センサーの気まぐれで一つおきに消えたり点いたりしている。点くと虫が集まり、消えると、影が増える。私はどっちも嫌いじゃない。
ポケベルが、短く震えた。
表示は数字だけ。
「402-……」
『第402ヘゲモニー期。通知:あなたが5分間、内閣ユニットの処理担当になりました』
代理の声が、ほんの少しだけ丁寧になる。
『入力がある場合、今です』
私は笑いも出ないまま、eペーパーの端に指を置いた。こういうの、昔は「役員くじ」だった。今は、もっと遠い何かのくじ。
回覧板の最後に、住民のコメント欄がある。
「夜、子どもが帰る」
「猫に餌やるのに暗い」
「電気代は?」
その下に、さっきまで空欄だったところへ、誰かの手書き風の一文が浮いた。
《党ドクトリン署名:検証可能(暫定)》
暫定。つまり、解けてしまっている。
私の指先が汗ばむ。承認にすれば、明るい廊下が増える。非承認にすれば、台帳の数字は守れる。どちらも、たぶん正しい。
『カーボンクレジット残高:棟内余剰 0.7。延長実施で 0.1 に低下』
代理が読み上げる。
私は、昔の母が言いそうなことを想像した。
「夜更かしするな。廊下は早く暗くなれ」
でも、母はいま検査室の中だ。ここにいるのは、名前も知らない代理と、私だけ。
ポケベルのタイマーが、あと何秒かを刻んでいる気がした。
私はeペーパーに「承認」を選び、最後に理由を短く打った。
《防犯。帰宅導線の確保。相殺は各戸0.02の購入で対応》
送信。
台帳の欄が即座に更新され、購入予約が自動で割り振られる。私の口座にも、細い請求が一つ増えた。
ポケベルは、何事もなかったみたいに黙った。
窓を少し開けると、廊下の向こうで照明が一つ、かすかに明るくなった。誰かが帰ってきた足音がする。
代理エージェントが言う。
『処理完了。あなたの担当時間は終了しました』
私は、回覧板の紙の表紙だけを撫でた。紙は、ただの紙のままだ。
明るくなった廊下に、虫が一匹、まっすぐ飛び込んでいくのが見えた。私はそれを見送って、請求の通知を消し、NiMHの充電ランプが緑に変わるのを待った。