コピー機の前で、春分の署名が詰まる

──平成0x29A年03月21日 10:00

 コンビニのコピー機が紙を噛んだ。三枚目。

 液晶パネルには「ジャムヲトリノゾイテクダサイ」と、カタカナだけの表示が点滅していて、私はしゃがみ込んで給紙トレイを引き出した。トナーの匂いが鼻を突く。隣のレジではおでんの出汁が煮詰まっていて、二つの匂いが混ざると妙に懐かしい。

「先生、また力任せに引っ張ってます。ローラーの下、見てください」

 右耳の奥で、叔母の声がした。宮原典子、享年四十九。交通事故。元コピー機メーカーのサービスエンジニア。私のエージェントになってからもう六年になる。

「……典子さん、ありがとう。見えた」

 千切れかけた用紙を慎重に引き抜く。コピー機はガコンと唸って復帰した。

 私は第7教育ブロックの職業訓練校で、内閣ユニット実務の初級講座を受け持っている。今日は春分。祝日だが、午前に補講を一コマ入れてあった。受講生十二名のうち九名が出席予定で、教材のプリントが足りない。学校のプリンタが先週から調子が悪く、こうしてコンビニまで走ってきたわけだ。

 教材の中身は「閣議署名手順の実習ガイド」。党ドクトリンのアルゴリズム署名を模擬的に体験させるための手順書で、毎年三月に改訂が入る。改訂版のPDFは昨夜ダウンロードしたはずだった。

 はずだった。

 コピー機から出てきたプリントを見て、私は固まった。ヘッダーに印字された署名ハッシュのプレフィクスが、旧年度のものだった。〇x7Fで始まっている。今年度は〇xA3のはず。

「典子さん、これ去年のだ」

「ですね。記憶補助アプリ、確認しました? 昨夜のダウンロード履歴、残ってないです」

 ガラケーを開いた。二つ折りの液晶に、記憶補助アプリ『おもいだし帳』のアイコンが並んでいる。タップすると、昨夜の行動ログが時系列で出てくる。二十二時十四分、リモート診療端末で花粉症の処方を受けた記録。二十二時三十一分、駐輪場で自転車を停めた記録。紙札の番号まで撮影してある。第7教育ブロック南口、C-14。

 だがダウンロード履歴がない。

「たぶん改訂版、まだ配信されてないんじゃないですか。署名の切り替えが年度末ぎりぎりになるの、毎年でしょう」

 典子さんの声は呆れと親しみの中間にある。生前もこういう口調だった、と母が言っていた。

「でも補講は十時からで、あと二十分しかない」

「旧年度版で署名が通らないことを、そのまま教材にすればいいんじゃないですか」

 私は三秒ほど黙った。それから笑った。

 そうだ。署名手続きの不一致を体験させるのに、これ以上の実例はない。受講生たちは模擬閣議で署名を通そうとして、弾かれる。なぜ弾かれるのかを考えさせる。年度の境目に署名プレフィクスが切り替わること、切り替えのタイミングが党ドクトリンの暗号更新に依存していること、そしてその更新が——もう半ば公然と解読されているアルゴリズムの上に成り立っていること。

 教えるべきことが、全部この紙に詰まっている。

 十二枚のプリントを抱えてコンビニを出た。駐輪場に向かう。紙札C-14。朝の光がアスファルトに薄く反射して、自転車のベルが鈍く光った。

 ペダルを漕ぎ出しながら、典子さんが言った。

「先生。一つだけ」

「なに」

「その教材、署名が旧いから正規には配布できませんよ。閣議実習資料は当年度署名がないと——」

 風が冷たかった。三月二十一日の朝の風。

 私は黙ってペダルを踏んだ。教室には九人の受講生が待っている。署名の不一致を教えるための教材が、署名の不一致で配れない。

 完璧な教材だった。完璧すぎて、使えない。