鋳造された魂の返却日
──平成0x29A年05月15日 17:20
アクリル板の向こうで、老婦人が小さな金属製のメダルを恭しく両手で受け取った。
「はい、これにてお祖母様の人格データ、返却手続きは完了です。ご自宅のターミナルに接続すれば、三十分ほどで再同期されますので」
私の事務的な声が、静かなカウンターに響く。老婦人は深く頷くと、隣にいた娘らしき女性にメダルを渡した。ざらついたニッケル合金の、安っぽい光沢。かつてのゲームセンターで使われていたものと、材質も規格も同じだと聞く。
「代理のエージェントさん、何でも正しくて……少し疲れましたわ」
娘さんが、ほっとしたように息をついた。
「母はいつも、『そんな理屈通りにいくもんかね』なんて、ぼやいてましたから。その声が聞けない一週間は、静かすぎて」
私は曖昧に微笑んで頷く。彼らの視界にだけ映るARガイドに従い、紙の申請書がトレーに乗って差し出された。私は慣れた手つきで受け取り、日付印の隣に自分の認印を押し込む。朱肉の湿った匂い。インクが少し掠れた。
『翔太。押し方が甘い』
頭の中に、低く、落ち着いた声が響く。父だ。
「わかってるよ」と、声には出さずに思考だけで返す。視界の隅に半透明で表示される父のエージェントは、腕を組んでこちらの仕事ぶりを監視している。
手続きを終えた親子が会釈して去っていく。自動ドアが閉まると、フロアには再び静寂が戻った。閉館まであと十分。壁のコンセントから共有型のバッテリーを引き抜き、残り3%になっていた窓口端末のものと交換する。カチリ、と軽いロック音がした。
この人格データ保全センターが、俺の職場。法定倫理検査のために預託されたエージェントたちを、洗浄し、最適化し、異常な逸脱がないかを確認して、家族の元へ返す場所。俺の仕事は、その最後の窓口だ。
父も、かつてはここの技官だった。俺が受け渡している、あのゲームセンターのメダルのような物理キーに、分散ストレージから人格データを鋳込む、その職人だった。
過労で倒れる、その日まで。
『次の申請者はいないな。今日の業務は終了か』
「みたいだな」
『その掠れたハンコ。始末書ものだぞ、昔なら』
「うるさいな。父さんだって、最初は下手だったくせに」
軽口を叩きながら、俺は自分の端末を操作する。来週の予定表を開くと、そこには赤字でアラートが上がっていた。
【エージェント:岡崎 健吾 法定倫理検査 推奨期間開始】
もう、そんな時期か。この父のエージェントを、同僚たちの手に預けなければならない。父が作り上げたシステムで、父の魂の写しが検査される。その数日間、俺の思考を補佐するのは、あの家族が言っていた『正しいことしか言わない』代理エージェントになる。
「……父さん」
『なんだ』
「いや……別に」
何を言えばいいのか分からなかった。寂しい、なんて言えるはずもない。これは、ただの制度だ。社会の安定を維持するための、ただの手続きにすぎない。
机の引き出しから、自分のハンコを取り出す。ずしりと重い、黒水牛の認印。これは、父が技官になったときに、祖父から贈られたものだという。そして俺がこの職場に就いた日、父のエージェントが「机の三番目の引き出しに入っている」と教えてくれたものだ。
『……俺の検査が終わったら』
不意に、父が言った。
『もう一度、押し方を教えてやる。俺が親父に、そうしてもらったようにな』
俺は何も言えず、ただ手の中にある冷たい印鑑を握りしめた。窓の外では、合成タンパク質の匂いが混じる平成の夕暮れが、ゆっくりと始まろうとしていた。掠れた印影の染みた申請書の束が、やけに重く感じられた。