校正音が響く、代講の午後

──平成0x29A年02月16日 16:20

放課後の職員室は妙に静かだった。生徒の声も、部活の音も、遠い。

俺は机の上に広げた紙の束を見つめていた。学校連絡網の名簿だ。クラス担任が急病で休んだため、代わりに俺が週明けの保護者会の連絡を回すことになった。本来なら自動配信で済むはずだが、このクラスだけは「紙併用」が残っている。理由は誰も覚えていない。たぶん、数年前の誰かの希望がそのままシステムに引き継がれたのだろう。

空中ディスプレイに連絡文の下書きが浮かんでいる。生成AIが校正してくれるはずだったが、さっきから応答がない。画面の隅に「更新不備:記憶補助モジュール再起動中」と小さく表示されている。

「また止まってるのか」

母のエージェントが、俺の耳元で呟いた。声は少し遠い。いつもより、少しだけ。

「そうみたいだ」

母は生前、国語の教師だった。享年は六十三。病室で、最後まで赤ペンを握っていた。エージェントになってからも、俺の文章を直してくれるのが日課だった。

だが、今日の母は違う。いや、正確には「代理」だ。法定の倫理検査が長引いている。もう三週間になる。代わりに割り当てられたのは、標準型の教育支援AIだった。声は母に似せてあるが、抑揚が薄い。赤ペンの入れ方も、少し機械的だ。

「この文、『ご参加ください』じゃなくて『ご出席を』のほうが丁寧だと思うけど」

代理が言う。正しい。でも、母ならもっと別の言い方をしたはずだ。たぶん、「『ください』は押し付けがましいわよ」と笑いながら。

「ああ、そうだな」

俺は空中ディスプレイに手を伸ばし、文字を書き換えた。指先がほんの少し震えている。

その時、ポケットの中で何かが鳴った。ガラケーだ。着メロは『Jupiter』。母が生前、気に入っていた曲だった。俺はそれを引き継いで使っている。

画面を開くと、短いメッセージが届いていた。

「倫理検査、延長します。次回報告は来月初旬」

センターからの自動通知だ。またか、と思った。もう慣れた。でも、慣れたくはなかった。

「大丈夫?」

代理が訊いてくる。母の口調を模倣しているつもりなのだろう。でも、やっぱり違う。

「ああ、平気だ」

俺は連絡網の名簿に目を戻した。手書きの電話番号が並んでいる。丁寧な字も、雑な字も、ボールペンの滲みも、すべてそのままだ。

生成AIが復帰するまで、俺は自分で校正をすることにした。母の赤ペンを思い出しながら、一文ずつ。

代理は何も言わなかった。それでいい、と俺は思った。

窓の外で、夕焼けが少しずつ沈んでいく。職員室の壁時計が、カチ、カチと音を刻んでいた。