錆びたバルブと折り目の記憶
──平成0x29A年04月01日 16:00
平成0x29A年04月01日、16:00。
旧新宿エリアにそびえ立つ第4高層農業プラントの配管スペースは、今日も生温かい湿気と錆の匂いに満ちていた。
作業着のポケットの中で、三十二和音の着メロが鳴り響く。J-POPのチープな電子音だ。私は分厚い手袋を外し、二つ折りのガラケー型端末を取り出した。パカッと開くと、極小の液晶画面から高精細なARウィンドウが空中に展開される。サブスクで契約している保守用アプリの起動画面は、なぜかテキストベースのiモード風UIだった。
「現在位置を特定できません。GPS信号をロストしました」
無機質なシステム音声に、私は小さくため息をついた。
『また空間座標バグか。平成エミュの古いプロトコルと最新の暗号チェーンの間に挟まれて、システムがポンコツになってんだよ』
骨伝導イヤホンから、兄・拓也の声が響く。三年前にこのプラントの足場から落下して死んだ彼は、今では私の近親人格エージェントとして端末に宿っている。生前と変わらない、少しぶっきらぼうだが面倒見のいい声だ。
「仕方ないさ。党ドクトリンのアルゴリズムが『この不便さこそが社会の安定に最適』って判断してるんだから」
私は端末をしまい、腰のポーチから折り畳まれた紙の地図を取り出した。プラント内部の配管図面だ。デジタルナビゲーションが息をするようにバグるこの現場では、結局のところアナログな紙の地図が一番頼りになる。何度も広げられ、折り目が擦り切れた地図を指でなぞりながら、薄暗い通路を進んで目的のバルブを探す。
今日の任務は、水耕栽培ユニットへの給水バルブの調整だ。本来なら中央のシステムが全自動で行うはずだが、給水量変更のリクエストが、どこかの内閣ユニットの閣議決定で滞っているらしい。数十万のユニットが並行処理をしているとはいえ、党ドクトリンに基づく暗号アルゴリズム署名が完了しなければ、電子制御のバルブはピクリとも動かないのだ。
『おい、亮。右の三十七番配管だ。手動で開けちまえ。署名を待ってたらレタスが枯れちまうぞ』
兄の言う通りだった。私は分厚い金属製のバルブに手をかけ、体重を乗せて回した。ギギギと重い音を立てて錆びたバルブが回り、管の中を勢いよく水が流れる音が響く。手のひらに伝わる配管の冷たさと振動が、やけに生々しい。
その時、視界の隅で淡い金色の光が明滅した。
『遺伝子ネットワーク通知』だ。天皇の体調に微細な変化があったのか、あるいは何かの祭祀のタイミングか。国民に薄く広く共有される皇室遺伝子ネットワークを通じて送られてくるその通知は、一瞬だけARグラスに波紋を広げ、すぐに消えた。誰も気にとめない、日常の微かなノイズ。
「終わったよ」
私は地図に落ちた水滴を袖で拭い、再び丁寧に折り畳んだ。紙のざらついた感触と、指先に残る錆の匂い。
『お疲れさん。やっぱり物理的な手動操作と紙の地図は裏切らねえな』
「兄貴が言うと説得力あるよ。あんたが落ちた足場も、思いっきり物理だったからな」
『違いねえ』
兄の軽い笑い声が耳の奥で響いた。
高度に暗号化され、何百層ものシステムに覆われたこの世界で、デジタルな承認はいつだって遅れがちだ。けれど、冷たい鉄の手触りと、ポケットの中で嵩張る紙の地図の重みだけは、確かに私が今、ここに生きていることを証明してくれていた。