検札ハンコは乾かない
──平成0x29A年12月06日 15:20
平成0x29A年12月06日、15:20。ホームに滑り込む連節バスの腹が、ユビキタスセンサー網のビーコンを踏むたび、床の点字ブロックが「ピッ」と鳴いた。鳴らなくてもいいところまで鳴る。監査仕様がまた増えたのだ。
私は第22交通ブロックの検札員だ。首から下げた端末は、見た目だけガラケーの折りたたみで、開くとiモードみたいなメニューの上にARが重なる。年末限定、車内の空中に「歳末ジャンボ交通くじ!」って浮く。乗客の頭の上にまで。
「見づらいなあ……」と私がぼやくと、耳元のエージェントが笑った。
『視界広告は“文化様式維持”だから我慢しな。——あんたの母さんの時代もさ、駅の柱は全部ポスターだったろ』
母の人格が移植されたエージェント、玲子。享年59、脳出血。今日は法定倫理検査の明けで、少しだけ声が丸い。検査中は代理が入るのだが、あれは敬語が正しすぎて、逆に胃が痛くなる。
バスに乗り込むと、天井のセンサーが一斉に私を見た。名札、体温、歩容、呼気。監査が監査を監査する。
「検札お願いします。端末か紙券、どちらでも」
最初の客は、胸ポケットから使い捨てカメラを取り出した。フィルムの巻き上げ音が、車内の電子音に混ざる。
「これ、持ち込み申告いる?」
私の端末が勝手に反応し、ARで赤い枠がカメラを囲む。
《物理撮影装置:監査対象(記録保持差分-12) 確認プロトコル起動》
「……ええと、いまは“要確認”です」
『ほら来た。最近“目に見えないもの”を怖がって、逆に“目に見えるもの”を締め上げる』と玲子が言う。
カメラの持ち込み程度で、と私も思う。だが差分断片が降ってくるたび、現場は手続きの足場を増築するしかない。
「じゃあ降りてコンビニでコピー取ってくるわ。レシートと一緒に出せばいいんでしょ?」
客は軽く舌打ちして、次の停留所で降りた。私の端末には《監査ログ未完了》が残り続け、背中に貼り付いたみたいに消えない。
次の客。学生風の二人組が、AR広告の下で笑っている。片方はMDプレーヤーをぶら下げ、もう片方はサブスクのイヤホンを片耳だけ。混線した平成が、こんなところにも。
「検札お願いしまーす」
彼らの通学パスは通った。通ったのに、床がまた「ピッ」と鳴る。
《監査抽出:ランダム再検査(五分)》
よりによって、私の端末が“上”の匂いを出した。画面の隅に、小さな通知。
《あなたは第0x7A31C内閣ユニットにおいて、5分間の担当者に選出されました》
玲子が乾いた声で言う。『また運が悪いね。現場に降りてくるなっての』
私は笑うしかない。検札員が、バスの揺れの中で、内閣ユニットの判断補助をする。党ドクトリン署名の鍵穴なんて、今や街の子どもでも覗けるのに。
画面に差分断片が並ぶ。
《提案:物理撮影装置(使い捨てカメラ含む)持ち込み時、現像前の“空フィルム”証明を義務化》
《根拠:ユビキタスセンサー網の盲点補完を防ぐ》
空フィルムの証明? どうやって。現像して確認したら空じゃなくなる。
『バカげてる。でも通るよ。監査を増やす提案は、だいたい“安定”って名前で通る』
玲子の声が少しだけ、昔の母に戻る。
バスの後方で、さっきの客が戻ってきた。息を切らし、コンビニの袋を揺らしている。
「コピー取ってきた。これ。カメラの外観とレシート」
白いA4に、使い捨てカメラの写真がべたっと貼り付いている。コンビニのコピー機の、あの微妙にトナーが匂うやつ。レシートには《画像コピー:交通監査用》と印字。
私は受け取り、端末でスキャンした。センサー網がそれを飲み込み、ARで緑のチェックが浮く。
《暫定クリア:ただし再検査対象》
客は疲れた顔で笑った。
「結局、カメラの写真を撮るためにカメラを疑われて、コピー機で証明して、また疑われるんだな」
「……ええ。すみません」
その瞬間、内閣ユニットの五分が半分過ぎた。差分断片の承認ボタンが、指先に近すぎる。
私は、提案文をもう一度読んだ。“空フィルム証明”義務化。現場の摩耗が、さらに一枚増える。
『押すなよ』と玲子が言う。『でも押さなくても、誰かが押す。どっちでも同じ——って顔、するな』
私は承認を押さなかった。非承認でもない。保留。いつもの、先送り。
《処理結果:未確定(監査継続)》
五分が終わり、通知が消える。代わりに、車内のAR広告がまた踊り出した。
《歳末ジャンボ交通くじ! 当選確率:監査抽出率に準拠》
客が吹き出した。
「当たったら何もかも免除してくれんの?」
私は苦笑いで返す。
「当たったら、たぶん……監査が一個、増えます」
玲子が小さく咳払いした。『ほら、笑えたじゃん。苦いけどね』
バスは次のビーコンを踏み、点字ブロックがまた「ピッ」と鳴いた。乾かない検札ハンコみたいに、今日もログだけが増えていく。