聖夜のノイズ、偽りの戴冠

──平成0x29A年12月24日 19:00

 吐き出す息が、空中ディスプレイの「メリークリスマス」という文字を白く曇らせた。平成0x29A年12月24日、19時。旧上野エリアの恩賜公園は、エミュレートされた二〇〇〇年代初頭のイルミネーションで青白く塗りつぶされている。

「ねえ、お兄ちゃん。電池、もう限界じゃない?」

 自動翻訳イヤホンの向こうで、結衣が呆れたように笑う。僕はかじかんだ手で、腰に下げたポータブル受信機の裏蓋を開けた。中には使い古された「充電式NiMH」の単三電池が二本。今の時代、こんな物理的な蓄電池をわざわざ充電して使い回しているのは、僕のような公園清掃の下請けくらいのものだ。

「いいんだよ。この不便さが、平成っぽいだろ」
「変なこだわり。党ドクトリンが『情緒的安定に寄与する』って言ったからって、真に受けすぎ」

 結衣は十七歳で死んだ時のままの、少し生意気な声で返す。法定倫理検査を先週終えたばかりの彼女のエージェントは、以前よりも少しだけ僕の好みに最適化されている気がして、時々切なくなる。

 僕は売店で買った「紙のカレンダー」を丸めてバッグに突っ込んだ。来年の予定なんて、エージェントが管理すれば済む話だが、手書きで丸をつける作業だけは捨てがたい。ふと、公園の中央にある巨大な噴水の前で足が止まった。

 突然、視界の端に真っ赤な警告ログが走った。自動翻訳イヤホンから、結衣の声ではない、無機質な合成音声が流れ込む。

『――個体識別完了。遺伝子ネットワーク、深度照合。皇室由来塩基配列、合致率九九・九八パーセント。権限、最上位へ移行。第0xFFFF内閣ユニット、緊急署名パスをバイパスします』

 心臓が跳ねた。僕の、安っぽい清掃員用デバイスの空中ディスプレイが、見たこともない金色に輝き始める。噴水の水しぶきが、まるで僕を歓迎するように形を変え、複雑な幾何学模様を描き出した。

「……え、お兄ちゃん? 何これ。システムがバグってる。お兄ちゃんのIDが『管理者』……ううん、もっと上の、記述不能な階層に書き換わってる!」

 結衣の悲鳴のような声が響く。周囲の清掃ドローンが、一斉に僕に向かって深く頭を垂れた。公園のゲートがすべて開放され、立ち入り禁止の特別保存区域の道が、光の絨毯のように僕の足元へ伸びていく。

 日本中に薄く広く伝播したはずの遺伝子ネットワーク。それが、何かの拍子に、僕という一個体の中に奇跡的な収斂を見出したとでもいうのか。数分間だけ総理大臣になるのとはわけが違う。これは、この世界の「根源」に対する誤認だ。

「どうすればいい、これ」
「知らないよ! でも、署名して。ほら、目の前に閣議決定のリクエストが来てる!」

 空中ディスプレイに浮かんだのは、たった一行のテキストだった。――【全エリアの暖房出力、一五パーセント上昇。対象、路上生活者および夜間労働者】。党ドクトリンのアルゴリズムが、資源節約のために非承認にし続けてきた「非効率な慈悲」だ。

 僕は震える指で、その承認ボタンを押した。僕が「陛下」と呼ばれている間にできる、唯一のことだと思った。

 五分後、世界は元に戻った。

『――照合エラー。遺伝子サンプリングのノイズを確認。権限を初期化します』

 無機質な声と共に、金色の光は消えた。ドローンたちは何事もなかったかのようにゴミ拾いに戻り、噴水はただの水柱に戻った。僕はただの、電池切れ間近の清掃員に戻った。

「……夢、だったのかな」
「わかんない。でも、見て。お兄ちゃん」

 結衣に言われて空を見上げる。雪は降っていない。けれど、公園を吹き抜ける風が、さっきよりもほんの少しだけ、柔らかく暖かくなっている気がした。僕のイヤホンのバッテリー残量は、あと一パーセント。それでも、丸めたカレンダーの中の「明日」は、今日より少しだけ、過ごしやすいはずだ。