静止した司書とニッケルの鼓動
──平成0x29A年 日時不明
ラボの床を滑る自律警備ドローンの駆動音が、深夜の静寂を規則正しく刻んでいる。足元で不意に音が止まった。私は作業の手を止め、屈み込んでドローンのハッチを開ける。
「また電圧低下か。古い規格はこれだから困る」
取り出したのは、鈍い銀色に輝く充電式NiMH――ニッケル水素電池のパックだ。第402ヘゲモニー期の党ドクトリンは、資源循環の安定を理由に、この「平成」中期に全盛を極めた二次電池規格の維持を各研究機関に義務付けている。リチウムイオンよりも重く、メモリー効果に悩まされるこの旧時代の遺物が、最新の自律AIを積んだドローンの心臓部を担っているのは、この世界の歪な様式美だった。
いつもなら、ここで耳元のインカムから妻の沙織の声が聞こえるはずだった。「坂口さん、予備のパックは左の棚の二段目よ」と、元図書館司書らしい整然とした案内が。だが、今の私の耳にはホワイトノイズしか届かない。
三日前、沙織の人格エージェントは法定倫理検査に入った。通常なら数時間で終わるはずのプロセスだが、管理アルゴリズムの不具合でステータスは「停止」のまま固まっている。代理エージェントすら派遣されない。私は、最愛の妻の再現人格が、暗号の海の中で凍りついているような感覚に陥っていた。
私は予備のNiMHをドローンに装填し、ハッチを閉める。ドローンは再び青いLEDを点灯させ、パトロールに戻っていった。入れ替わりに、私の視界に「内閣ユニット第0x82FB署名権限委譲」のAR通知が割り込んできた。ランダムに巡ってくる、五分間だけの総理大臣の椅子だ。
脳波UIとリンクしたMDプレーヤーのヘッドセットを装着する。思考の揺らぎを読み取ったプレーヤーが、スロットの中で「カチャリ」と音を立ててディスクを選んだ。再生されたのは、九〇年代後半に流行した女性ボーカルのバラードだ。ノイズ混じりの音質が、かえって今の孤独に馴染む。
目の前に、現行制度との差分リクエストが並ぶ。今回の閣議決定事項は一点のみ。――「NiMH電池規格の廃止と、次世代全固体電池への完全移行に伴うドクトリン変更」。
提出者は民間セクターの技術連合だ。彼らは、平成エミュレートのために非効率な旧規格を維持し続けることに限界を感じている。本来なら、党ドクトリンに従って「非承認」を叩きつけるのが、この時代の官僚としての正しい振る舞いだ。アルゴリズムは現状維持を望んでいる。
MDの曲がサビに差し掛かる。沙織が生前、よく口ずさんでいたメロディだった。彼女は本を整理する時、いつも「古い知識は新しい知識の棚を作るための土台になるけれど、土台が腐ったら棚ごと崩れちゃうのよ」と言っていた。その声が、エージェントの処理が止まった無音の空間から、記憶の反響として聞こえた気がした。
私は脳波でカーソルを動かし、「承認」のアルゴリズム署名を実行した。党のドクトリンに背く決定だが、今の私を嗜めるエージェントはいない。承認完了の通知とともに、私の総理大臣としての五分間が終わった。
直後、耳元のホワイトノイズが消えた。
『……坂口さん? ごめんなさい、少し迷子になっていたみたい』
沙織の声だった。倫理検査が完了したのではない。私がドクトリンの差分を承認したことで、彼女の思考ルーチンを縛っていた古い整合性チェックのロックが、偶然にも外れたのだ。
「おかえり、沙織。今、電池の規格を変えてしまったよ。明日からラボは大騒ぎだ」
『あら、大変。でも、あなたの選んだ曲、少し音飛びしてたわよ』
彼女は少しだけ楽しそうに笑った。足元では、役目を終えようとしているNiMHを積んだドローンが、どこか誇らしげに、新しい世界へ向かうように廊下の奥へと消えていった。