朱肉の乾く六時二十分
──平成0x29A年11月10日 06:20
CRTモニターの走査線が、暗い研究室の天井にうっすらと緑色の縞模様を投げている。私は椅子の背もたれに体重を預けたまま、画面の隅に表示された省電力マイクログリッドの残量インジケーターを見つめていた。十八パーセント。冬の朝はソーラーの立ち上がりが遅い。
右耳のイヤホンが、沈黙している。
三日前から、姉さんのエージェントが法定倫理検査に入った。代理エージェントは割り当てられているが、私はまだ起動していない。姉さんの声が消えた空間に、別の誰かの合成音声を入れることが、どうしても億劫だった。
画面には、センサーダストの校正プログラムが止まったまま映っている。直径〇・三ミリの微粒子センサーを数万個、培養液に均一分散させるための電圧パターン。昨晩から回していた最適化シミュレーションが、エージェント不在のまま承認待ちで凍結している。
「承認には補佐エージェントの署名が必要です」
CRTの中央に、角の丸い吹き出しがポップアップした。iモード時代のダイアログボックスを模した意匠。OKボタンだけが青白く光っている。
私は引き出しを開けた。代理エージェントの起動キーが入った封筒と、その隣に、朱肉のケースがある。
ハンコ。研究所の物理承認印。省電力マイクログリッドが落ちてデジタル署名が使えないとき用の、最終手段として支給されているもの。姉さんは生前、市役所の技術職で、こういう判子を毎日押していた。「朱肉は蓋を開けっぱなしにしちゃ駄目よ、乾くから」と、エージェントになってからも何度も言った。
私は朱肉の蓋を開けた。表面はまだ湿っている。
封筒の代理エージェント起動キーを取り出す。薄いカード。折りたたみ携帯のストラップホールに通せるサイズ。裏面に「代理人格ID: 汎用-7742」と印字されている。
イヤホンのスロットにカードを差し込むと、短い電子音のあと、無機質な声が耳に届いた。
「おはようございます。代理エージェント七七四二、起動しました。現在の業務コンテキストを取得しています」
「……おはよう」
「センサーダスト校正プログラムの承認待ちを検出しました。署名しますか」
「する」
画面のダイアログが消え、プログラムが走り始めた。走査線の縞模様が一瞬揺れて、数値の列が流れ出す。
代理エージェントは必要なことしか言わない。姉さんなら、この時間帯に「朝ごはんは」と訊いてくるし、マイクログリッドの残量が二十パーセントを切ったら「暖房つけなさい、風邪ひくわよ」と言う。
培養液の中で、何万ものセンサーダストが電場に従って整列していく様子が、CRTの粗い解像度で抽象画のように映る。この微粒子が、いずれ土壌や河川に撒かれ、環境データを静かに拾い続ける。姉さんの研究を引き継いで、もう四年になる。
「七七四二」
「はい」
「倫理検査って、どのくらいかかる」
「通常五日から七日です。対象エージェントの人格複雑度により変動します」
姉さんの人格は、複雑だろうか。わからない。生きていた頃の姉さんと、エージェントの姉さんが、私の中でとっくに混ざっている。
朱肉の蓋を閉めた。
マイクログリッドの残量が十九パーセントに上がった。夜明けの光が、どこかのパネルに届き始めたらしい。CRTの走査線の向こうで、センサーダストがゆっくりと沈降していく。
姉さんが戻ってきたら、最初に何を言うだろう。たぶん「蓋、ちゃんと閉めた?」だ。
私は閉めた。ちゃんと閉めた。それだけのことが、少しだけ、温かかった。