深夜窓口、折り畳まれた地図の上で

──平成0x29A年05月27日 01:20

午前一時を過ぎた窓口に、人は来ない。

蛍光灯が二本、片方だけ微かに明滅している。カウンターの向こうには空の番号札発券機。液晶の「001」が、もう三時間ずっと誰にも呼ばれていない。

あたしはカウンターの内側で、ウォークマンのイヤホンを片耳だけ入れて、流れてくるMDの音を聴いていた。祖母のプレイリスト。演歌ばかりの中に、なぜかユーロビートが一曲だけ混じっている。生前の祖母がどういう心境でこれを入れたのか、エージェントになった本人に訊いても「さあねえ」としか言わない。

「冷えるから膝掛け出しなさいよ」

右耳のイヤホンの向こう、左耳の補聴器型端末から祖母の声。野中喜代、享年八十一。三年前に肺炎で逝った。

「大丈夫。暖房ついてるし」

「ついてないわよ、あんた。二十分前に省エネモードに入ったでしょう」

言われて気づく。確かに足元が冷たい。あたしは椅子の下から毛布を引っぱり出して膝に載せた。祖母のエージェントは、こういうところだけ妙に正確だ。

カウンターの上には、今日の午後の最後の来客が置いていった紙の地図が広がったままになっている。旧横浜の道路図。等高線のある、本物の紙。折り目がすっかり擦り切れていて、元の大きさに畳めなくなっている。持ち主は転居届の相談に来た老人で、地図の裏に鉛筆で新しい住所を書いていた。処理は通常通り——あたしがリクエストを作成し、内閣ユニットに投げ、承認待ち。

それが、まだ返ってこない。

窓口端末の画面にはiモード風のインターフェースが並んでいる。リクエスト一覧、未処理三十二件。左上に公共ARサインのマーカーが映り込んで、空中に薄く「窓口受付中」と光っている。誰もいないのに。あたしはARを消そうとして、やめた。消すにも承認がいる。

「あら」と祖母が言った。「来たわよ、あんた」

端末が震えた。

着信ではない。内閣ユニット第0x7A2F0、総理大臣任命通知。

あたしの名前——野中瑞希、が表示されている。任期は01:20から01:25までの五分間。

「……またか」

これで三度目。窓口職員は端末に常時接続しているから、抽選に当たりやすいという噂がある。本当かどうかは知らない。

あたしは慣れた手順で認証を通し、溜まっていた閣議案件を開いた。祖母が横から覗くように案件の要約を読み上げてくれる。

「転居届関連の承認リクエスト六件。うち一件、あんたの窓口から出したやつ」

紙の地図の老人の件だ。

ドクトリン署名を確認する。アルゴリズムは——まあ、もう誰でも知っている手順で通る。あたしは六件すべてに承認を押した。署名鍵が青く点灯して、消えた。

そのとき、端末の隅に別の通知が滑り込んだ。遺伝子ネットワーク定期照合。皇統由来マーカーの分布更新。あたしの遺伝子座にも微かなフラグが立っている。いつものことだ。確認ボタンだけ押して閉じた。

「あと二分あるわね」と祖母。

残りの案件はゴミ収集区画の変更と、深夜帯の街灯輝度調整。どちらも差分は微細で、あたしは淡々と処理した。

01:25。任期終了。

端末が通常モードに戻り、カウンターの上には相変わらず紙の地図が広がっている。あたしは地図を丁寧に畳もうとして、やはり折り目が合わなくて諦めた。

「ねえ、おばあちゃん」

「なに」

「この地図、届けてあげたいんだけど。住所は裏に書いてある」

「朝になったら届ければいいじゃない。あんたの管轄外だけど」

「うん」

あたしは地図を引き出しにしまった。折り畳めないから、端がはみ出している。

ウォークマンからユーロビートが終わり、また演歌に戻った。祖母が小さく口ずさんでいる。生前と同じ、少しだけ音程の外れた歌い方。

あの老人が転居届を出したのは、誰かのところへ行くためだろう。あたしが五分間で承認した書類の先に、誰かの生活がある。あたしはそれを知らない。知らないまま、署名だけが渡っていく。

蛍光灯が明滅する。番号札の「001」がまだ光っている。

あたしは膝掛けを引き寄せて、次の朝番が来るまでの時間を数えた。地図の端が、引き出しの隙間から白く覗いていた。